カンニング竹山の古文不要論に関して。 | 大衆演劇西高東低ブログ☆川崎大島劇場真夏の夜の夢★

カンニング竹山の古文不要論に関して。

カンニング竹山が古文なんて人生で役に立ったことなんて一度もないとコメントしたそうです。


まあ、そらそうよ。


というか、それ言ったら、英語だって日常生活で使う機会なんてあるんですか?まあ、古文に比べたら触れる機会はあると思いますけど。電車に乗れば否応なしに英語のアナウンスが流れてきますし。


古文に関していうと、フツーの人にとっては道楽みたいなものです。朝日カルチャーセンターに通うような暇な年寄りくらいしか需要がなさそうなのが古典文学の世界ですから。


あとは、漫画とかでなんとなく古典文学っぽい世界を感じたりとか、その程度ですよね。


なので、一般的には大学受験のための道具と化してるのが現状です。


慶應大学なんてそもそも古文を受験に課してないですから。そんな大学も少なからずあったりします。


また、まともに古文を教えてくれる講師が少ないというのも実情です。受験テクニックとして割り切って覚えさせるのが大半ですね。


古文不要論が出てくる背景には教える側に8割ほど責任があるような気がします。くだらない講師が多いから生徒や受講生の琴線に触れないんですよ。2割は不勉強のせいだと思いますけど、やはり教える側のいい加減さが大きいとは思いますね。


駿台の関谷先生みたいなひとがたくさんいればいいんですけど、そんなひとごくひと握りですからね。代ゼミの古文はツッチー以来、お笑い枠ですし。ツッチーが古文講師の概念を変えました。もう、引退されたみたいですけどね。個人的には椎名先生が好きでしたね。亡くなってしまいましたけど。


教養としての古典文学なんてそれこそ国文学を専攻してからの話でしょうし、そこまでに達する以前に飽きられがちなのが古典文学ですから。残念ながら。


ところで、小島よしおと広末涼子は国文科を専攻したはずですが、今やっている仕事とはあまり国文学は関係なさそうですよね。まさに、そんなの関係ねえの世界です。


まあ、古文とはトリビアの世界なのかも知れません。


例えば、あかつきとあけぼのの違い、わかりますか?


暁は夜明け前の薄暗い状態、当時は通い婚が基本だったので、男が女のところから退出する時間ですね。


曙は少し明けてきた状態、清少納言の枕草子における「春はあけぼの」でも有名ですね。


少し前ならば、ブルートレインの名前にもあかつき、あけぼのは使われていたはずです。


このように、知ってるとちょっと話のネタにはなるかな、程度ですかね。


劇団暁は夜明け前、まだこれからっていう意味なんですね。


役に立つから覚えるとか、役に立たないから意味がないとか考えない方がいいと思います。勉強の本質は何かの役に立つからやるのではなく、全く役に立たないようなことでもとりあえず真剣にやってみる遊びにあると思います。珍味みたいなものですね。たまには変わったものを食べると楽しいと思いますし。


その経験が何かの糧になることもあるかも知れません。そこら辺はあまり期待しない方がいいですね。


そんなこと言ったら、漫才とかコントとかお笑いなんて何の役に立つんでしょうか?くだらないのひとことで切り捨てることもできますし。ふざけるなと罵倒することだってできます。


あっても役には立たないけど、あればあるで別に邪魔にはならないと思うんですよね。


古文もお笑いも似てると思います。存在価値があるのかといえば正直微妙ですけど、要らないから捨ててしまえとか、やめてしまえというのもなんか違いますよね。そんなこといったら、伝統だとか文化なんてもののうち大半は不要になりそうですし。


能とか、文楽とか、歌舞伎とか。


宮大工とか、仏像だとか、初詣だとか。


さらにいえば、天皇の存在価値とか。


まあ、自分にとってくだらないからと言って、相手を否定するとそのまま自分に返ってくることがあるかも知れないくらいは認識した方がいいかもしれません。