どうも、わたしです。
今回は花村萬月さんの『ゲルマニウムの夜』をご紹介。
アウトローで有名な花村萬月さん。見た目もなかなかいかつくて驚いた記憶がある。
わたしは個人的に花村萬月さんの宗教観が好きです。現実的で。
そして、猩猩がオラウータンと読むことも彼から学びました(関係ない)。
その中でも特に好きなのがこの作品。
大分前に読んで、ちょっと忘れかけていた頃に友人から映画版のゲルマニウムの夜の話をされて、あれ?それって本になってるやつ?そうだよ?という会話を経て、再読。やっぱりいい!と思ったので、ご紹介。
ちなみに映画版だと主演が新井浩文さんで、こんな感じのパッケージ。
新井さんって『青い春』を観た時も思ったんですが、基本的に汚いのにふと見るとものすごい綺麗な時があるんですよ。
なんだろう、神々しいというか、アンニュイなこう、色気がある。
『ヘルタースケルター』の時のおネエな感じも好きですがね。
ちなみに、映画で一番好きな新井さんの瞬間がこちら。
良い感じどころの騒ぎじゃない。
話は逸れましたが、原作の話をしましょう。
圧倒的な知性と異様さを持った青年(朧)の話。
あ、多分ネタバレするのでお気をつけて。
ミッション系の孤児院で、青年は幼少期この孤児院で生活し、出て行ったあと殺人を犯してしまい身を隠すために孤児院に戻ってくるというあらすじです。これだけ読むとなんでしょう、可哀想な身の上の青年が孤児院で過ごして更生していくヒューマンドラマかな?とか思いますよね。
安心してください。
全然違います。
青年は犯した罪を一つも後悔していないし、理不尽な暴力も続けます。更生とかそういうもんじゃない。
これは、青年が見極めている、孤児院のクズさを露見するために必要な悪なのです。
青年がまだ子供の頃、それは終戦直後でまだまだ立ち直ったとは言えない状況。
その中の、孤児院という閉ざされた環境(ミッション系という特殊な)で繰り広げられる暴力と性。
いわゆる、社会から隔離しておきたい人間の集められる場所のようになっていて、これがもうリアルでグロテスクで惹かれますね。
その光景を加害者でもなく被害者でもない彼は異様な区分けをしていきます。この暴力は愛情、この暴力は執着…と暴力とは何か、そしてそれは何を伝えたいのかという哲学的な形で彼の脳内でぐるぐるしていきます。ただ、混沌とした考えではなく、彼自身の知能がかなり高いので解剖医のように考えていきます。
青年の最も大きな魅力は【善悪の基準が一般的なものと違う】ということです。
青年は悪人ではないのです。自分が愛している人に対してはそれこそ神がかり的に愛情を示します。自分を傷つけた人間だとしても、愚かだと思い自分でこっぴどく傷つけた人間だとしても、愛した瞬間愛情を惜しみなく注ぎます。こんな暴力的で恐ろしい人なのに、愛情を示すシーンなどを読むと「あ、もしかしたら好きかも」とか思ってしまう。いけないいけない。
青年はどうして、暴力(性的なものも含む)をふるうのか、何をしたいのか。
という点を考察するのがとても楽しかったです。
神になりたいのかなって思いながら読み進めていたんですけど、なんだろう、全く新しい神になりたいのかなぁとか思った(語彙力ないね)。暴力をふるう理由もキリストは全てを許すという文章はみんなお馴染みですが、そのことに反発しているのかと最初思ってましたが、そうじゃなくて、実際に罪を行い、暴力を行い、キリストの存在証明をしてやろうという感覚です。これはもう、あれです、本当あれです。ある種、暴力は神罰であり、なおも信じ頭を垂れ続けるものを愛している。それが、信仰や神なのではないか、というような。
以前の記事でコリントの信徒への手紙の一文を紹介しましたが↓
この手紙には、何があっても残るのは信仰、希望、愛の3つであり、その中でも最も優れているのは愛と言っています。
この本を読んで、もう一度この文章を読むと、複雑な想いになります笑
愛ってなんでしょう。
人が思う愛とわたしと思う愛はきっと違って、10人いれば10人の愛があるのはわかるけど、なら2人が出会って、好きになるってどういうことなんだろう。それぞれ違う愛を持っていて、その愛の形が愛情表現がお互いの思う愛と違ったら、2人は離れてしまうのだろうか。
作中で青年は童貞設定なんですが、修道女になることを希望している女性をトラックに連れ込み、強姦しようとするんですが、逆に女性は積極的にセックスをしようと持ち込み、童貞を捨てます。これ、一番吐きそうになった部分。精神的に潔癖と常々言っていますが、本当にこれは人間らしくて動物らしくて本能らしくて吐きそう。
花村萬月さんの作品はどれも【倫理観】というものを考えさせてくれます。
愛って、なんですかね。
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