先週発生した熊本県を中心とする地震では、想定外の事態が多く発生している。
たとえば、本震と思われた木曜の地震の2日後にさらに大きな揺れに襲われ、
それが本震だったと後になって認定された。

しかも、これは益城町近くの断層の一部がずれただけで全体がずれたわけではない。
それでも震度7という大きな規模だった。
今後、震度7クラスが頻発するとの予測も成り立つので
気象庁にとっては想定外の事象がこれからも起こり得る。

ここで気になるのが、この断層の先にある中央構造線。
伊方原発から6キロ前後しか離れていない我が国最大級の断層。

去年10月、中村愛媛県知事は、伊方原発再稼働に同意した。
ただちに脱原発を実現するのは難しいのは確かだが、
地元同意プロセスがお粗末。
1000人規模の住民説明会があった川内原発とは
比べものにならない。

万が一、過酷事故があった場合は、
「政治生命、進退をかける」とのことだが
中村知事の「政治生命をかける」との言葉は額面どおりには
受け取れない。

2012年衆院選挙で塩崎さんの対立候補池本氏を
「政治生命をかけて応援する」としていた。
当然、まわりは進退をかけての肩入れと解釈。

その後、池本氏は大差で落選。
しかし、この結果を受け中村知事は
「毎日すべてのことに政治生命をかけている、そういう心意気」として
はぐらかした。

普通「政治生命を賭ける」とはここぞいう重大な判断を行うときのみ
辞職覚悟でもちだすべき発言です。

でも中村知事にとっては日常業務も政治生命を賭ける対象であり
かといってその中に失敗があったとしても職を辞するわけではない。

中村知事の「政治生命を賭ける」とはそういうレベルなので
政治生命を賭けるかどうかの質問は野暮というものです。


それに、伊方原発で福島第一クラスの重大事故が起きれば、
知事が辞職したところで意味はない。

責任とって真っ先に伊方に出向いて除染作業を行う、
作業員の中に進んで入っていく、といった覚悟を表明するなら
「そこまで中村さんが腹くくってるなら」と説得力もあるのでしょうが。


再稼働ありきの判断だったといわれないためにも
耐震強度をさらに上げるよう求めてはどうだろうか。

愛媛県独自の基準で1000ガルという厳格な耐震強度を
四国電力に求めたというが、近年4000ガルを記録した地震もあり
原発は最低でも2000ガルの耐震強度が必要との意見がある。

この熊本地震でわかったのは、
我々が知っている地震の規模やパターンというのは
長い歴史でみれば、ごく最近の知見に基づいているにすぎないということ。

江戸時代以降とか過去1000年以内とかそういったベースでの
分析では足りない。

原発だけは、重大事故起こしたら取り返しがつかないので、
電力会社が達成できそうな基準を、というのではなく
想定外のうえにさらに厳格な安全基準を求めてほしいものです。




自民・公明党が憲法解釈をねじまげて、集団的自衛権を認めようとしていることに、ほとんどの憲法学者をはじめ、歴代内閣法制局長すら違憲だと批判している。

私は、集団的自衛権は、正式に憲法改正を行ってから行使を認めるべきだとする、自民党の村上誠一郎議員の主張がまっとうだと思っています。
 根拠のひとつに挙げる砂川事件判決も、個別的自衛権ならまだしも、集団的自衛権まで認めたと読める部分はまったくないのですから。

 で、私がさらに気にしていることは、もし、このような強引な解釈改憲(改憲とはよべないかもしれませんが)が実現した場合の、国会議員や官僚機構に及ぼす悪影響です。

 憲法より下位にある閣議決定や法律が、憲法を自在に変更し、凌駕してしまうという悪しき前例。これをきっかけに、我が国の立憲主義、法の支配は根本から揺らぐでしょう。精緻に積み上げてきた、法解釈体系が崩れだす危険がある。

 実際、もう悪影響が出てきている。
たとえば、ある法律について、法の条文より「省庁申し合わせ事項」なるものを優先させたり、防衛大臣に至っては「憲法を法律に合うよう変えなきゃいかん」と発言したり。 根底にあるのは、自分たちの都合の悪い高位の規範を無視し、てっとり早くいじれる、より下位の規範を優先させようという、とんでもない発想です。

 これをやり始めたら、政府はおろか、社会全体も不安定化します。

憲法にはこう書いてあるけど、政治家や有力者の方針が優先される。
官僚は、法の制約より、政治家の顔色を優先し、法の支配は無視されるようになる。

 結果、極めて俗人的な主義主張が、法律や憲法さえ凌駕する。

 この集団的自衛権論議は、そういった意味でも、我が国の行く末に悪影響を及ぼす危険に満ちています。

すでに、長年、法解釈を緻密に行ってきたはずの内閣法制局は、違憲法案に異議を唱えないし、政府内の官僚たちの法適用、解釈もいいかげんになってきていると感じます。

「憲法でさえ、あんな強引に骨抜きにできるのだから、
 法律だって省令だって都合よく運用していいじゃん!」

そんな退廃的な意識が政治家・官僚のみならず国民に広がるのを危惧します。
愛媛県が、県内の自転車通学高校生に、ヘルメット着用を義務付けることにした。自転車通学生の命を守る、といえば聞こえがよいが、なんか違和感ある。
 そこまでするなら、さぞかし愛媛では自転車通学生の交通事故死が多いだろうと思いきや、年に1~2件あるかないか。急激に増えている訳でもなく、むしろ全国的には平均か少ない方。なんで驚いたように始めたのか?
 そりゃ、死亡事故減ればいいとは思うが、限りなく低い死亡確率を無くすために、全高校生が毎日ヘルメット着用という不便と時間とコストをかけるのは、果たして適切か。それに、確率でいえば、歩行者が車に跳ねられて頭部損傷受けて亡くなるケースが多いわけで、だったらまず歩行者にヘルメット義務づけるべきじゃん、という極論も成立する。さらに言えば、高齢者の事故が高校生よりはるかに多い。むしろ高齢者を守るための装備を配るほうが、死亡事故低減に直結するはず。なんか、アンバランスでなにが真の目的か、わからない施策と感じます。

 この施策の矛盾は、また別の機会にさらに検討するとして、今回考えたいのは、この施策のための「お金」の使い方と出所です。

 まず、使い方。自転車通学高校生だけでなく、自転車通学していない高校生にも無償配布する必要があるのか。一度もつかわれないヘルメットも多数出てくるのは必至なわけで、税金の使い方として問題はないのでしょうか。

 で、もっと問題は、3万ものヘルメットを購入するためのお金の出所です。県立高校の予算の中から捻出するならわかるが、高校とは関係ない養護学校や小中学校向けのお金、予算も削ってこのヘルメット大量購入に回したと教員の友人から聞きました。教員の中でも異論があると。これが事実なら、許されないことだと思います。養護学校・小中学生にも配るなら理にかなうが、無償ヘルメットという利益を享受するのは現在の高校生だけ。小中学生は何も与えられないのです。彼らは高校生になったら、自腹で高いヘルメット買わなきゃいけない。なのに、養護学校、小中学生向けのお金が3万個ものヘルメット購入に振り向けられたとすると。。。公正さに欠けますし、とても説明がつかないのではないのでしょうか。

 以上、個人的に、この施策の不自然さや強引さ、そして不公平さが、どうしても気になるのでした。。。