父の3回忌に寄せて



2020年2月25日、父が亡くなってから、早いもので、明日がお寺での3回忌です。
亡くなった年を数えるので、仏教でいう3回忌は、亡くなってから2年なので、あっという間です。

父は、岡山県高梁市の里山で産まれ、結果的に生涯、この地以外の場所に住む事はなく、生まれてから亡くなるまで、同じ住所地で一生を終えました。
どこから、どんなDNAが受け継がれてくるのか、人間の不思議なのですが、父は芸術面でのDNAを色濃く体内に持って生まれて来たようで、小さな頃から、読み書きはあまり出来なかったようですが、絵を描かせたら非凡な才能を発揮していたらしいです。

父の父(おじいちゃん)は、私が生まれる前に亡くなってしまったので、記憶にはないのですが、文武両道で、地域の世話役だったようで、おじいちゃんが残した書き物等を見ると、地域のために尽力していたようで、おじいちゃんの血が私にも流れているんだな~と感慨深いです。

小さな頃から絵を描くのが好きだった父は、挿絵画家になりたかったようで、昭和初期としては

珍しく、絵画の通信教育を受けていたようで、その時に提出した課題の絵が残っていて、父のやる気が伝わって来ます。

東京に行って、絵を描く仕事がしたいと夢見ていた父も、その父が若くして亡くなり、残された母親を置いて行くわけには行かなかったのでしょう、家業の理容業を継ぐ事になりました。
そして母と結婚して私と妹が生れるわけです。

家業の傍ら、多趣味の父は、絵を書いたり、農業をしたり、魚を釣ったり、お酒も大好きで、朝起きると家には、日本酒の一升瓶がゴロゴロしていた事は記憶に残っています。
家の奥の部屋では、毎夜、毎夜、飲み会が行われ、芸達者な父は三味線を弾いて、歌い、踊り、田舎ならではの社交場でした。

多感な時は、なんで、居酒屋でも、飲み屋でもないので、毎晩、毎晩知らない人が家にいて、飲み会が開かれているのか、むかついていましたが、今になってみれば、自分もそういう事が好きで、主催してる訳なので、カエルの子はカエルなんだなと思います。

自分の生まれた場所に、魅力も感じず、自分の可能性を広げる事も見いだせなかったので、とにかく東京に行く事を選択しました。父は、自分が出来なかった東京へ行く夢を果たして欲しいと、当時、親戚からの「女の子を東京に生かしたら、不良になるのがせいぜいだ!」という言葉を無視して、東京に行かせてくれました。

父が具合が悪いという一報を受けていたのですが、その時、マレーシアに住んでいたこともあり、最後の死に目に会えなくて、亡くなる翌日となってしまった事は後悔が残るのですが、その前にビデオ通話で、「お父さん、すぐに帰るからね!」と言った時に、笑顔で答えてくれた父の面影が、今でも記憶に残っています。

コロナ禍の数日前に亡くなったので、ご近所や親戚の方も集まって頂き、葬儀をする事ができたのも、父が持っていた運なのかなと思います。

父が亡くなった事で、母が一人になり、こうして、元々そんなに好きではなかった自分の生れ故郷に戻り、その地域のために動こうとしています。今は、逆に好きです。
私を送り出してくれた父が、私を呼び戻したのではないかなと感じる事もある今日この頃です。

60歳を前に、脳溢血で倒れ、後半の人生は不自由な身体でありながらも、利き腕の右手から左手に持ち替えて、日本画から油絵に手法を代えて、亡くなるまで絵を描き続けた父の絵は、実家の周辺のいろんな場所に掛けて頂いています。

一生懸命仕事をしていた父、絵を描いたり、魚を釣ったり、農業をしたり、自然や芸術をこよなく愛した父、お酒が大好きで、母にたくさん迷惑をかけた父、感受性豊かで子供ようだった父、
自宅で母に看取られて旅だった父は幸せな人生だったと私は思います。