酒井奈美子 響屋 代表

奈美子ちゃんとの出会いは、2011年12月のシンガポールです。GWAの4回目となる国際交流会をシンガポールで開催し、その時に和太鼓の演奏をしてくれたのが彼女でした。それ以来のお付き合いで、私がマレーシア・ジョホールバルに移住した時のイベントにも当時小学生くらいだった息子さんとご主人の3人で演奏に来てくれた事が昨日の事のようです。奈美子さんはシンガポールで和文化を伝える先駆者で、現在は響屋という和楽器の演奏やワークショップなどのイベント企画や、和楽器教室等を運営する会社を経営しています。


2015年ジョホール国際交流会に出演してくれた時の写真

東南アジア青年の船に乗った事が人生のターニングポイントになる。


酒井さんは、茨城県の古河市出身です。「古河市は埼玉と栃木と茨城の県境で、となりの駅は埼玉県。最近は電車が便利になり、東京もだいぶ身近になっているようですが、私の子供の時代は、ほぼ地元で過ごしました。高校生の時にアメリカで一か月ホームステイをしたことはありますが、高校まで地元の公立学校に通い、上智大学入学を機に東京に住むようになるまでずっと地元でしたね。まさか、そんな私がシンガポールで和太鼓など日本の文化を紹介する活動をすることになるなんて」・・・と語ります。

小学生ぐらいの時の地元の盆踊りで、知ってる子がやぐらの上で太鼓を叩いてるのを見たのが、彼女の「太鼓との出会い」だと言います。その子が、いつもよりもとてもかっこよく見えたのを覚えています。「やってみたいな。」とは思いましたけど、地元に和太鼓教室があるような時代じゃないし、そのままになってました。
 

実際に太鼓に触れることができたのは、それからだいぶ経った1997年の夏、大学を卒業してからです。日本の内閣府青年国際交流事業の1つである「東南アジア青年の船」に参加したことがきっかけです。これは、彼女が生まれた年と同じ1974年に始まったプログラムで、「アセアン諸国の青年たちと日本の青年たちの相互の友好と理解を促進すること」などを目的として実施されています。

 

日本丸という客船で、当時は2ヶ月間ほど共同生活をしながら、様々なテーマで議論をしたり、各国の文化を紹介したりするそうですが、彼女がその時に選んだのが「空手と和太鼓」です。「空手は以前からやっていたんですけど、和太鼓はこの事をきっかけに、ゼロから始めて、今では各地に和太鼓教室が存在するので、2歳くらいから始める人もいまが、それに比べると、私の和太鼓のスタートは本当に遅かったんです。まさか、それが自分の仕事になっていくとは。。。」

「好きなものは、好きだ。」と言っておいたら和太鼓が続けられました。

「東南アジア青年の船」は歴史のあるプログラムで、私の数年前には、紀子様もこのプログラムに参加したそうです。私は日本の青年代表を務めさせていただいたので、日本でも当時の橋本首相に表敬訪問をさせていただきました。そういった表敬訪問やレセプションは各国で開催されます。そこで国会議員の方などのVIPの前で、パフォーマンスを披露する機会があり、なんと、私の和太鼓のデビューはそういった華々しい形となりました。確か、ベトナムでした。

 

それ以外にも、船内でのクラブ活動で「甲板で海を眺めながらの和太鼓練習」など、なかなかできない体験をたくさんさせていただきました。このプログラムでの演奏のために、「大江戸助六太鼓」というプロの和太鼓のグループに集中的にご指導をいただいたのですが、青年の船が終わった後すぐには、和太鼓からは少し離れてしまいました。

 

でも、「太鼓をやりたい」という気持ちは大きくなっていき、ことあるごとに「太鼓がやりたい、太鼓が好きだ。」と話していました。するとご縁というのは不思議なもので、たまたま知り合いが太鼓をやっていて、(その方はほとんど幽霊部員だったということを後で知りましたが)、そのご縁で当時住んでいた地域の商店街の方の和太鼓のグループに仲間入りさせていただくことになりました。

 

魚屋さんとか肉屋さんの店主さんたちが、地元の盆踊りでの演奏や学校公演をメインに、日々練習を重ねているグループで、練習後の「反省会」という名の飲み会が私は実は大好きでした。そのグループが各地のお囃子などにも取り組んでいたことも、私の活動にとても大きな影響を与えています。海外で活動しているからこそ、日本の祭りや芸能との繋がりをとても大切にしていますし、「音だけじゃなくてエネルギー」を届けたいと思っています。その活動が今の私の活動のルーツかな、と思います。そして何より、この出会いがあって、和太鼓を続けられていたんです。ご縁と言うのは不思議なもので、本当にたくさんの方との出会いがあって、今の私の活動があります。私が大切にしている言葉が3つあるのですが、その1つ目がこの「ご縁」です。

Youはどうして海外に?先駆者を目指して!ではなく…

大学を卒業した年の夏に青年の船に2ヶ月も乗っていた彼女には、その当時の「普通」とされていたような、卒業と同時に就職というスタートではありませんでした。「政府観光局で働いたり、フリーでツアーコンダクターなどをしていました。今考えると、大学で取得した教員免状や、こういった様々な経験が、今いろいろ役にたっています。「人生無駄はない。」と、本当に思います。」

 

元々バックパッカーだったのと、ツアーコンダクターをしていたので、実は、あちこちの国に行っているんです。よく「どこの国が一番いい?」と聞かれるのですが、それぞれの国がそれぞれ違う意味でいいので、答えに困ります。ただ、「実際に住んでみるとしたら?」と聞かれると、青年の船参加後の彼女にとっては、シンガポールが断トツだったとそうです。シンガポールは日本から近くて、時差も一時間。日本と同じような生活をしようと思えばそれもできるし、逆に超ローカルの生活をしたいと思えばそれもできる、いいとこ取りしてどちらも取り入れた生活も可能、そんな印象がありました。治安のことや、青年の船に参加したシンガポール参加青年とのつながりや、日本人参加者が多く移住していたことなども、シンガポールを選んだ理由ですね。

 

そして、今から21年半前の2000年1月に、日本語教師としてシンガポールに来ました。当時は、和太鼓を伝えるためにシンガポールに来たわけではありません。もちろんそう思っていたって、それを仕事にできるような環境はなかったですけど。ご縁をいただき、日本語学校で日本語を教えていました。もともと大学で取得したのは中高の英語の教員免状でしたが、その後日本語教育能力検定という試験に合格しました。大学を卒業してからの方が勉強したタイプですね、私は。

 

その後、日本語の指導だけではなく、日本文化を伝える機会など、いろいろなお話を頂くようになりました。和太鼓もそうですが、独楽とか、けん玉、折り紙、紙芝居、風呂敷など、とにかく自分が好きで集めているものなどを生かした活動が増えて行きました。シンガポールに根付いて、「自分が好きなこと、できること」を、地道にコツコツと長く続けてきた、それが今につながっているのだと思います。

当時のシンガポールは、今と比べると私のような現地採用組は、それほど多くなかったのではないでしょうか。私が来た当時は、ビザなども条件も今とは全然違いました。正直、今の条件だったら、私はシンガポールでの生活を始めることはできていなかったと思います。「タイミング」も、私の活動の大切なキーワードです。

文化を広める活動を、助成金に頼らずに成り立たせたい。

シンガポールでも、文化芸術分野への助成がいろいろあります。ただ、対象はNPO団体だったり、シンガポールの文化に対してだったりすること多いです。響屋を立ち上げる時に、NPOにする選択肢もあったのですが、あえてそうしなかったのは、「助成金に頼らなくても文化を紹介する活動が成立する。」という道筋をつけたかったというのがあります。もちろん大きなコンサート開催などでは、助成金をいただいてサポートしていただくこともありますし、それ以外のサポートも本当にありがたいです。ただ、それだけに頼らないで活動していけるよう努力を続けています。
 

と、聞こえのいいことを言ってはいますが、2009年の4月に法人を立ち上げた直接のきっかけは、固定でスタジオを借りようとした時に個人では借りられなかったから、ということなのです。その前は、音楽学校を借りていました。正直維持費のことを考えると、固定でスタジオを持つ事に消極的だったのですが、主人が積極的に笑顔でスタジオを見つけてきたので、「エイヤッ!」と勢いで決めました。今ではそれが良かったと思っています。私の大切にしているキーワードの最後の3つ目が、この「勢い」です。当初は生徒の数もそれほど多くなく、稼働率はかなり低くて大赤字でした。でも、時間で音楽学校を借りていたときと違って、終わった後にみんなで太鼓談義をしたり、誰かの誕生日にはケーキを食べたり、ただ太鼓を習うだけの場所から、「日本文化が好きで、太鼓が好きな人が集まってくる場」となりました。その意義は大きかったです。


家族に支えられて頑張る酒井さん

好きなことをことを仕事にするとは?


自分が好きな事をやっていて、それが誰かの喜びに繋がったり、同じ事が好きな仲間が集まって来たりするのが嬉しいですね。でも、好きな事をやっていると同時に、「やらねばならぬこと」もたくさん出てきます。例えば、自分が指導を受けたいアーティストを日本からお呼びしてワークショップを企画すると、私は「参加者」ではなく、「主催者」になってしまうんですよね。参加して学ぶことよりも、主催者としてアーティストのお世話や通訳、その他いろいろなことがメインになってしまって、「あれ、なんでこのワークショップを企画したんだっけ…。」と悲しくなるときも正直あります。好きを仕事にしてしまうことで、純粋に好きだけでは物事が進まないところもあって、バランスが大切かなと思っています。

 

「海外で太鼓の活動をするのは太鼓やスタジオの確保が難しいこともあり、同じようなことをしている人は、今のところいません。シンガポールに来て、これまでの経験や強みをいろいろ活かして活動できることができているので、いろいろ大変な事はありますが、好きな事を仕事に出来てありがたい」と彼女は言います。

お世話になったシンガポールに少しでも貢献出来るような、
ナンバーワンじゃなくてオンリーワンになりたい。


ガーデンズバイザベイで開催されたSAKURA MATSURIにて、シンガポールのリー首相が自らセルフィーを撮影してFacebookへ投稿

響屋では、和太鼓だけじゃなく、他にも様々なことに取り組んでいるとの事。各地のお囃子や民謡、郷土芸能、民俗芸能などです。日本文化に興味がある人も多く、日本関連の多いシンガポールに根付いて、こうして活動ができていることは、本当にありがたく、これからもそれを生かしていきたいと思っています。日本との繋がりとシンガポールとのつながりを持つ私だからこそできること、それを丁寧に続けていきたいです。例えば、日本でもそれほど広くは知られていない民俗芸能の団体をお呼びして公演する際には、「私がシンガポールに来ていなかったら、きっとこの芸能がシンガポールで知られることはなかったんだろうなぁ。」と、一人感慨深くなったりしたこともあります。

 

このコロナ禍で、クリエイティビティと実行力はさらに磨きがかかってきた気がします。オンラインでのイベントやレッスンがこんなに身近になるとは思いませんでしたが、こちらもいろいろチャレンジしています。昨年からはボディーワークにとても興味を持ち、ピラティスと太鼓を組み合わせた「PilaTaiko」や、ワークアウトに特化したセッション「TAIKO WORKOUT」などいろいろチャンレジしています。

太鼓を打つすることだけが目的なのではなく、太鼓をやることで、+α(プラスアルファ)を届けたいと思っています。プラスアルファは、「チームワーク」や「集中力」が高まるとか、「健康」になるとか、「姿勢」が良くなるとか、「笑顔」が出るようになるとか、考えられる効果は様々で、面白く、ポテンシャルを感じています。今、機能解剖学などを学んでいて、太鼓と「ボディアウェアネス」をどう関連付けていくか、いろいろ試行錯誤中です。まだ誰も本格的にやっていないアプローチを自分で模索していくのはワクワクしますね。こんな時だからこそ、そんなワクワクを育てて形にしていきたいと思っています。それが、私だからできる「オンリーワン」の活動になっていくことを目指しています。

 

今年、在シンガポール日本国大使館でインタビューしていただいた記事とビデオがあります。そちらもぜひお時間のある時にご一読ください。
 

https://www.sg.emb-japan.go.jp/JCC/E-Magazine-Jan-2019-Featured-Article.html
https://www.facebook.com/JCCEOJ/videos/224946999345164


インタビュー後記


2011年GWAl国際交流会シンガポールでの、なみこちゃんの演奏
 

和太鼓を広めたくてシンガポールに行ったと思い込んでインタビューに入ったら、いきなり日本語教師として行ったんですよとの回答が返ってきました。和太鼓ありきじゃなくてシンガポールありきで始まったなみこちゃんの海外暮らし。どんな理由から入っても、きちんと自分のやりたい事を継続している人は、その国に根差す事ができるんだなと改めて思いました。