先日放映されたNHKの番組『スイッチインタビュー』の対談で、妻夫木聡さんが李相日監督に「なぜ『ブロークバックマウンテン』を見せたんですか」と尋ねていた。

 

映画『ブロークバックマウンテン』(2005年)は、同性愛者の2人の男性の20年に及ぶ葛藤や苦悩を描いた作品だ。

 

主演の二人を始め俳優陣の強烈なリアリティを感じさせる演技が印象的だった。

 

妻が夫の浮気を疑う場面や、恋人が女性と関係を持っても笑い飛ばす一方で、男性と関係したと知るや烈火のごとく怒り狂う場面など、他人のデリケートな部分をのぞき見しているような生々しい作風が秀逸だった記憶がある。

 

 

 

 
 


 

妻夫木さんの問いに対し、李監督は特別なことをしなくても目から伝わるもの、余白の意味に注目してもらいたかったと答えていたけれど、『ブロークバックマウンテン』と聞いて、私は何となく李監督が撮りたい映画の方向性が(勝手にあせる)腑に落ちる気がした。

 

 

 

『国宝』の喜久雄を観ていると、涙を流しているのが喜久雄なのか吉沢くんなのか、わからなくなる時がある。

 

例えば曽根崎心中の舞台を前にした楽屋のシーン。

 

喜久雄は初舞台を前に不安に押しつぶされそうな気持を俊ぼんに吐露する。

 

震える声で「俊ぼんの血が欲しい」と告白する喜久雄。

 

李監督はこの時の吉沢くんを見て「喜久雄が降りてきた」と感じたという。

 

 

 

吉沢くんはこの時、手が震える演技をするのではなく、実際に手が震えてくるまで自分を追い込んだと話していた。

 

李監督がこのシーンで撮りたかったのは、震える喜久雄の演技をする吉沢くんの姿ではなく、喜久雄というフィルターを通して現れる震える吉沢くん自身の姿だったのではないだろうか。

 

「舞台に全てを捧げるような喜久雄と自分との共通点はないと思う」と答える一方で、喜久雄を演じる上で「喜久雄と自分自身の間に境界があったのかどうかもわからない」ともコメントしていた吉沢くん。

 

李監督は俳優に役を演じてもらうのではなく、俳優自身の生の感情を役を通して映し出したいのではないか…。

 

 

 

 

映画『国宝』公式サイトより

 

 

 

そうした方向性を吉沢くんが見事に体現したと感じるのがクライマックスの『鷺娘』だったと思う。

 

魂がどんどん舞台に吸い取られて行き、ついに舞台から戻って来られなくなる歌舞伎役者の狂気を、吉沢くんは「自分の呼吸の音しか聞こえない」くらい鷺娘に没入して踊った。

 

まさに、喜久雄が舞台で感じた「恍惚」という状態に入っていた。

 

 

 

水辺にたたずむ白無垢姿の鷺娘。

 

静まりかえった空間の中、振り返った彼女の冷たく美しい眼差しが、これからただならぬことが起きることを告げている。

 

恋に取り憑かれた娘の狂おしいまでの妄執。

 

地獄の業火に焼かれても消えない激しい恋心。

 

ひんやりした青白い空間の先を見つめる吉沢くんの虚ろな瞳には、観客の姿も舞台の風景も映っていない。

 

追い求めるのは死んでも忘れられない愛しい人の面影…。

 

 

 

映画『国宝』公式サイトより

 

 

 

何十テイクも重ねた『藤娘』や『二人道成寺』と違い、『鷺娘』は体力を消耗する演目のため2、3テイクしか撮れなかったという。

 

そのせいもあるのかと思うけれど、細かく丁寧にあらゆる角度から撮影し最大限にその壮麗さを伝えようとした『藤娘』や『二人道成寺』とはうってかわって、『鷺娘』は、吉沢くんから溢れ出る陶酔感や恍惚感をカメラに収めるのが精一杯だったような印象さえ受ける。

 

 

 

舞台の上で『鷺娘』を通して吉沢くんが到達した「恍惚」の境地。

 

それは喜久雄になり切り、苦しい恋に狂う白鷺の化身を「演じた」のではたどり着けない領域だと思う。

 

他の仕事を断って1年半もの間稽古を重ね、自分を追い込んで苦しんだ末に生み出されたこの奇跡のような舞台を観ていると、実は、喜久雄と同じように吉沢くん自身もまた、あの「景色」を見たのではないか。

 

そんな気がしてならない。