聖徳太子はいなかった、という真っ赤なウソ 第40回 | 「聖徳太子はいなかった」という嘘

聖徳太子はいなかった、という真っ赤なウソ 第40回


●欠史八代は誰だったのか(30)

今日は、天智天皇の弟である、天武天皇の和風諡号(しごう)の解読をしてみます。兄の天智天皇の和風諡号は、「天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)」でした。

これまで、欠史八代以外の天皇は、次の表の3人を解読しました。敏達天皇、皇極・斉明天皇、天智天皇です。

$「聖徳太子はいなかった」という嘘にダマされた日本人-天智天皇と天武天皇の諡号

ここで、天智天皇の解読の結果を、おさらい、してみましょう。

天智天皇の、「天命開別天皇(あめ・みこと・ひらか・す・わけ・の・すめらみこと)」を、
「天命開別天皇(あめ・みこと・平瓦・素・別・の・すめらみこと)」と解読しました。

訳すと、「斉明天皇の命令を受けて、塼仏(平瓦・ひらか)を、素の状態で(壁に貼り付けるということをせずに)、倉庫に保存している(とり別けている)天皇」となりました。

この解読を受けて、次に天武天皇の和風諡号が、このストーリー上で解読できたら素晴らしいことになります。天武天皇は、川原寺の工事を、兄の天智天皇から引き継いで、お母さんの天皇を供養する川原寺を完成させました。

天武天皇の諡(おくりな)の、「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」が、「天智天皇が作らせて倉庫に保存してあった塼仏(せんぶつ)を、完成した仏堂の壁に貼り付けた」という名前であることを説明してみましょう。

$「聖徳太子はいなかった」という嘘にダマされた日本人-塼仏

和風諡号がワンペアだと良いことがあります。連立方程式になっている可能性があるのです。連立方程式だと容易に解けるのです。単独では謎でしかないものが、連立には、解く方法が内蔵されているからですね。

「私は解読に成功しました」と言っても、それが正解かどうかの判定は難しいです。その昔、韓国語で万葉集が読めるという本がありましたが、嘘かホントか日本人には判断できません。しかし、今回のケースでは、ストーリーが通れば、その解読は正解であると証明されるのです。

その上、解読したネーミングとストーリーで笑いが生じれば、証明は確定だということができます。笑いには智慧が含まれています。偶然で笑いは取れません。人を笑わせるというのは非常に高度な創作であって、そこには叡智が含まれているのです。

面白いものが偶然に発生することはありません。このことは、吉本のお笑い芸人に聞いてみればよく分かります。「人を笑わせるのは、とても難しいことだ」と言うに違いありません。

これを、「お笑い証明法」と名づけました。解読した結果を見て、くすっと笑えたら正解だという視点です。私見では、『古事記』『日本書紀』を書いた作家は、何とかして笑いを取ろうと努力していました。

「歴史を書くだけなら誰でもできる。そこを越えて、天皇や貴人たちを楽しませなければいけない。それが私の存在証明だ」と思っていたとしか考えられません。

ここでいう、貴人というものは、神様、ご先祖様、祟り神が含まれると思います。生きている人、死んでいる人、神霊をも含めて笑わせてサービスしようという意図が感じられます。

『古事記』を書いたであろう稗田阿礼や太安万侶が関西人だったのは間違いのないところです。関西人というのは、1300年前から人を笑わせるのが好きだったと思います。人間というものの本質は今も昔も、そんなに変わらないものなんでしょう。

少し脱線しましたが、天智天皇と天武天皇の連立方程式の名前の解読を続けます。天智天皇が川原寺の塼仏を作ったけれども、それを寺の壁に内装するところまではいかなかった……671年に亡くなったからです。672年以降に天武天皇が、川原寺の建物に内装しました。塔か金堂か、どちらなのか分かりませんが、おそらく金堂の壁じゃないでしょうか。

それでは、天武天皇の諡(おくりな)の解読をいってみましょう。「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」です。

私の解読経験では、和風諡号は宗教関係の名前が多いのですが、これも宗教関係でしょうか。仏教関係かもしれないと頭の片隅に入れて置きましょう。

「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」に、てにをは、を適当に挿入してみると、「天の、渟中(ぬな)の、原の、瀛(おき)の、真人(まひと)」となります。

「ぬな(渟中、沼名)」は、「瓊(ぬ)な」=「瓊(に)な」=「丹(に)な」で、「丹の」という、「赤い、丹塗りの、朱色の」といった意味であることが、これまでの解読で分かっています。

「渟中(ぬな)」は、「赤い」ですから、「天の赤い原の瀛(おき)の真人(まひと)」です……だめですね、意味が分かりません。

『日本書紀』の天武天皇の段の最初は、こうあります。
「天渟中 渟中、此をば農難(ぬな)と云う」

注意したいのは、「渟中、此をば農難(ぬな)と云う」の部分は、小書きなので、分注です。分注は、『日本書紀』の筆記者が書いたのかもしれませんが、後世の書き入れかもしれません。どちらなのかを判定するのは、なかなか難しいと思います。

前にも書きましたが、「ぬな(沼、沼名、渟名、渟中)」を諡号に持っている天皇は3人います。

$「聖徳太子はいなかった」という嘘にダマされた日本人

この表をジッと見ていて気になることがあります。

綏靖(すいぜい)天皇の「ぬな」は、「沼」と「渟名」です。
敏達(びだつ)天皇の「ぬな」は、「沼名」と「渟中」です。

『古事記』では、「沼」と「沼名」を、「ぬな」と読んでいて、微妙に違いがあります。どうしてでしょうか。作者の好みかもしれませんし、『古事記』の筆記者が、執筆前に収集した資料の段階で、既に、そういう筆記になっていたのを、尊重して残したのかもしれません。この時代は、自己流の自由な仮名遣いで書いていたということなのでしょう。

『古事記』は、第33代推古天皇で終わっているので、天武天皇の「渟中(ぬな)」は、『日本書紀』からです。

結論から言うと、私は、この「渟中(ぬな)」を、「ぬなか」と読みました。「渟中(ぬなか)」と読んで良いかどうかは議論のあるところでしょうが、そう読むことにして次に進みます。もし、これで解読できたとすれば、「渟中(ぬなか)」と読んで正解だったことになるはずです。

「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」を、

「天渟中原瀛真人(あめの・ぬなか・はら・おきの・まひと)」とします。

これをジッと見ていると、「かはら(川原・瓦)」が目につきました。

そこで、「天渟中原瀛真人(あめの・ぬな・かはら・おきの・まひと)」としましょう。「中」を「な・か」に分けて、前後で別々に利用するのです。高等テクニックを使っているようです。

「渟中(ぬな)」は、「赤い」ですから、意味は、「天の赤い瓦の瀛(おき)の真人(まひと)」となります。少し整理されてきました。

発掘された塼仏(せんぶつ)をみると、赤い塼仏という表現も可能だと考えます。

$「聖徳太子はいなかった」という嘘にダマされた日本人-塼仏パネル

土を焼いたら自然に赤っぽい色になるのかもしれません。古語辞典で、「はに」を引くと、「埴……赤黄色の粘土」とあります。

「はに」の「に」は何でしょうか。そこで、古語辞典で、「に」を引いてみます。1つ目は、「土(に)……つち。多く、土器の材料や顔料にするつち」とありました。

もう1つありました。「丹(に)……《ニ(土)と同根》(1)朱色の砂土。顔料にした。(2)赤色の顔料」とあります。

「天の赤い瓦の瀛(おき)の真人(まひと)」は、なんだか、いけそうな気がします。

あとは、「瀛(おき)の真人(まひと)」をうまく処理できないか。ここで、川原寺の塼仏に通じれば、私の仮説が正しいことになるでしょう。

「真人(まひと)」が、道教の仙人だという解釈がありますが、私は、これを採りません。天武天皇は仏教を深く信じた人であったからです。

天智天皇の死期がせまって病床に呼ばれた時、彼は、次の天皇の地位を辞退し出家して吉野に隠棲しました。だから、道教というよりは仏教でしょう。

「真人(しんじん)」を漢和辞典で引くと、(1)老荘学派で、道の奥義をさとり得た人をいう。(2)仙人。(3)[仏]シンニン、心理をさとった人。仏・羅漢などをいう。

とあります。だから、仏教でも良いのです。つまり、仏(ほとけ)のことを、真人(まひと)と表現したことも十分にあり得ます。

すると、「天の赤い瓦の瀛(おき)の真人(まひと・仏)」となりました。川原寺の発掘された塼仏(せんぶつ)は、中央が仏(ほとけ)で両脇は菩薩(ぼさつ)です。仏で良いのです。残りは、「瀛(おき)」です。あと、もう一息です。がんばりましょう。

天智天皇が焼きあげて倉庫に保管しておいただろう塼仏は、おそらく平らに積んであったはずです。それを、仏殿が完成して、壁に貼り付けたのですから、横の寝ているものを、縦に起こしたことになります。

だから、「起き(おき)の真人(仏)」です。これで解読完了です。

もう一度まとめてみましょう。天武天皇の和風諡号の、「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」を、

「天渟中原瀛真人(あめの・ぬな・かはら・おきの・まひと)」とし、

解読した結果、「天の赤い瓦の起き(おき)の真人(まひと・仏)」となりました。

意味は、「兄弟の母の天皇であった斉明天皇(天女・あめ)のために、赤い瓦として焼いた塼仏を、起こして壁に貼った天皇」ということになります。

それでは念には念を入れて、天智天皇の和風諡号から、もう一度復習してみましょう。天智天皇の、「天命開別天皇(あめ・みこと・ひらか・す・わけ・の・すめらみこと)」を、「天命開別天皇(あめ・みこと・平瓦・素・別・の・すめらみこと)」と解読しました。

これを受けて、天武天皇は、「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」を、

「天渟中原瀛真人(あめの・ぬな・かはら・おきの・まひと)」とし、

「天渟中原瀛真人(あめの・丹な・瓦・起きの・仏(まひと)」となったのでした。

母天皇の冥福を祈るための川原寺の仏殿を、兄弟2人が仲良く、リレーのバトンタッチをして完成させた話だったのです。

兄弟の心温まるエピソードを、『日本書紀』において連立方程式で贈り名したという、めでたしめでたしのネーミングでした。

さてここで、思考の整理をするために、ネーミングの5W1Hを考えてみることにします。いつ、どこで、誰が、どのように、何を、なぜ、したのか?

いつ……天武天皇が亡くなった686年から、『日本書紀』が完成するまでの720年の間に。

どこで……飛鳥か、藤原京か、平城京で。

誰が……森博達さんによれば、『日本書紀』の第27巻の天智天皇の段を書いたのは、中国人の薩弘恪(さつこうかく)で、第28巻の天武天皇の段を書いたのは、山田史御方(やまだのふひとみかた)だそうです。

薩弘恪は、『続日本紀』に何度か登場してきますが、文武4年(700)に、刑部親王以下19名に律令撰定の勅命が下り、禄を賜っている場面で、7人目が薩弘恪であるのが正史に出てくる最後でした。

持統天皇が亡くなったのは702年だったので、持統天皇の命令のもと、あるいは持統天皇の許可のもとで、薩弘恪が書いたと私は想像しています。

山田史御方はどうでしょうか。森博達さんによると、薩弘恪の引退のあとを受けて、文武朝から山田史御方が述作を初めたとしています。

山田史御方は、『日本書紀』の持統6年(692)の条に初めて名前が見えます。そこには、以前は、沙門として新羅で学問していたと書いてあって、この時、還俗させられたものと思います。

和銅3年(710)年正月13日に従五位に進み、同年4月23日に周防守を任じられています。そして、『日本書紀』が完成した720年には、従五位上に昇進しています。

山田史御方は、692年から710年あたりで執筆したのではないでしょうか。

私は、総合的に判断して、和風諡号については、持統天皇の意志が働いているように感じます。天智天皇は持統天皇の父だし、天武天皇は持統天皇の夫なので、和風諡号で笑いをとるような表記は、持統天皇の許可をとらないとマズイでしょう。

下手なことをして首をはねられるのは嫌ですから。だから、事前に持統天皇に伺いをたてながら、薩弘恪と山田史御方がネーミングしたんじゃないかと見ています。

でも、天武天皇は686年に亡くなっているので、この両人以外にネーミングした人がいた可能性は大いにあります。でも、今のところは、これ以上の判断はできません。

HowとWhatとwhyは省略しましょう。今日は、ここまで。