藤原京⑤:古田史学 | 古代史ブラブラ

古代史ブラブラ

古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

九州王朝と近畿ヤマト王朝の多元史観を提唱する古田史学における考えを以下の通り記す。

 

・「壬申の乱」は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に唐軍の捕虜から解放されて、倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の高市皇子のこと)と、薩夜麻が不在中に倭の政務を代行していた中宮天皇(十市皇女)-大友皇子(弘文天皇)との対立に、畿内の豪族の大海人皇子(天武天皇)が介入し、日本列島の覇権を得た事件であり、勝敗を決したとされる美濃からの援軍とは畿内日本軍である。

 

・「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)は、近畿の大海人皇子(天武)の力を借り、大友皇子らに勝利したが、協力を得るために吉野の盟約で、大海人皇子(天武)と九州倭国系のう野讃良皇女(持統天皇)の間の息子(草壁皇子)を後継者の皇太子とした。戦乱により、九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより、九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)の基盤は脆弱化し、戦乱とそれに続く天災で荒廃した九州から、天武の勢力圏である畿内へ、九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。

 

・「大化の改新(己巴の変)」は皇太子であった草壁皇子(天武と持統の息子)が即位せずに逝去したために、次の皇位に誰がつくか不明確となり、疑心暗鬼となった草壁皇子の子の軽皇子(文武天皇)と中臣鎌足(藤原不比等と同一人物)が九州年号の大和(大化)元年(695年)に藤原京で天皇(高市皇子=薩夜麻)とその子を暗殺し、翌年の大化2年(696年)に軽皇子(文武天皇)が即位した事件である。ヤマト王権は、文武天皇の時代に、九州倭国から政権を完全に奪い、日本全体が「日本」と呼ばれるようになった。

 

・古事記・日本書紀は九州倭国の歴史書であり、続日本紀は天武朝の歴史書である。記紀に記された天皇の内、初代神武天皇から第9代までの欠史八代の天皇、および第40代天武天皇と第41代持統天皇、続日本紀に記された第42天武天皇から第48代孝謙天皇までの7代、計18代だけが天武朝に連なる系譜である。記紀に記されている天武系の天皇は天皇ではなく、畿内の地方豪族に過ぎなかった。記紀に記されているその他の天皇は九州倭国の天皇である。神護景雲4年(770年)の称徳天皇の暗殺により、天武朝は断絶し、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。

 

・九州から王権が移動し、ヤマト王権が確立したのは7世紀末である。古代国家成立の要件は、常設の政府(官僚機構)、常設の軍隊(都城)等であるとする。これらが畿内地方で揃うのは、持統天皇8年(694年)以降であるが、九州には奴国や大宰府などの都城が古代から存在し、これらが揃っていたと考えられる。

 

・『魏志倭人伝』の邪馬壹国が北部九州にあったとする説を採ると、当然ながら、その後、九州倭国から畿内日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴史の正史では、倭についての記述は一貫しており、同一の国家についての事と理解される。

 

・唐の正史『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定できる。『新唐書』の時期に、日本の歴史が改竄・捏造されたと考えられる。

 

・万葉集では、8世紀まで大宰府(倭)を日本とは別の国と認識しているという解釈をする。漢文明圏では新たに成立した王朝は、自らの権力の正当性を示すため、前王朝の「正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。

 

・7世紀末に突如として畿内地方に出現した官僚集団は、九州の大宰府(倭京)から連れてこられたものである。ヤマト王権は、九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。ヤマト王権は、持統天皇8年(694年)に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、文武天皇5年(701年)に大宝律令を制定して、官僚組織を整備した。

 

(所感)

今回のヤマト・アスカ旅行で、橿原考古学研究所や奈良文化財研究所を訪問したが、九州からヤマトに王権が移動したという古田史学の多元史観に関する説明・情報は全くなかった。現在の歴史学や考古学の学会にとって、古田史学が提唱する考えは相容れない、というのが現状と認識した。

 

一方、今回のヤマト・アスカ旅行において、藤原宮の規模は約1㎞四方、面積約100haと大規模である一方、飛鳥の宮々は数haからせいぜい10数ha程度であり、藤原宮は飛鳥の宮をはるかに上回る規模に飛躍的な発展があった事は確認された。飛鳥の宮→藤原京は、連続的な発展ではなく、九州倭国の官僚集団の移動を含めた、別レベルの王朝の発展と解釈できる余地もあるかと認識した。

 

また、天武天皇(大海人皇子)の前半生は明らかになっていないという事も、天武天皇(大海人皇子)の解釈について、まだ検討する余地があるとの印象を得た。