「古墳と多元史観」箸墓古墳は卑弥呼の墓か | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

服部氏が説明される「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る」シリーズの「2.古墳と多元史観」の「箸墓古墳は卑弥呼の墓か」に関する動画の「ポイント」と「所感」は以下のとおり。

 

「ポイント」

・考古学者は、纏向の箸墓古墳の土器(布留0式)に付着した炭素14測定で、これが卑弥呼の没年(242~248年)に合致すると主張するが、生データ(100~500年)を見ると、箸墓の造営が卑弥呼没年と重なるとはとても言えない。

 

・文献から言うと、箸墓は卑弥呼(三国志に初めて出てくる倭王)の墓と全く違う。卑弥呼の墓については、三国志に詳細な記述がある(卑弥呼の墓は塚、直径約25m、百人あまりの殉葬があった)。一方、箸墓古墳は、円墳ではない(前方後円墳)、大きさが合わない(墳長278m)、殉死の形跡がなく、卑弥呼の墓と言えるものではない。

 

・鉄器の出土から見ても全く違う。卑弥呼の時代には、韓半島で鉄が採掘され、倭国も鉄を市で取引に使い、卑弥呼は鉄やじりの兵士に守られていた。弥生時代後期~終末期の鉄鏃(やじり)は、九州からは数多く出土しているが(熊本県311、福岡県231)、奈良県は1つ、大阪府は26しか出土していない。

 

・魏志倭人伝から邪馬台国は博多湾岸、卑弥呼の墓も博多湾岸にあった。博多湾岸の比恵・那珂遺跡遺跡(博多駅の南側)は弥生時代終末期~古墳時代初頭の最古の都市である(2㎞の道路、居館、倉庫群、墳丘墓などがある)。纏向が最古の都市だと言うが、同じ縮尺で比較すると、比恵・那珂遺跡は桁違いに大きい規模である。比恵・那珂遺跡の墳丘墓が卑弥呼の墓の候補である。

 

「所感」

・箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないことについては異論ない。

 

・比恵・那珂遺跡の墳丘墓を卑弥呼の墓の候補と考えるのであれば、墓の大きさ(直径約25m)、殉死の存在がみつかったかについての確認が必要。