いにしえの地響きが…… -2ページ目

いにしえの地響きが……

ご訪問ありがとうございます。
2018年秋ごろから、急に古代の日本のことに興味がわいてきました。
なにかと話題の「邪馬台国」については、現時点(2019年3月)では九州にあったのではないかと思っています。(^^)

NHKで、『ミステリアス古墳スペシャル(4)』という番組があった。
古墳めぐりをしたことはないのだけれど、古墳時代を想像することはちょっとワクワクするので、これまでの回も録画してしっかり見た……はずなのに、あれれれれ、過去の回を思い出せない……(^^;


ということで、今回は、メモしておこうと思う。


番組では、4つの古墳が紹介されていた。
最初に取り上げられたのは、継体天皇(番組の中では「ヤマト王 継体大王」との字幕が出ていた)の陵と言われているという古墳だった。
継体天皇といえば・・・たしか、継体天皇から王朝が変わったという説があったなぁと思い出しながら、興味を持って見ていると…。


んんん?と思うことが……。


天皇の古墳とされているものは宮内庁が管理していて発掘調査などは許可されていないはずでは……と思うけれども、こちらの古墳については、発掘を指揮されたという方がいらっしゃるし、また、発掘されたもの(ハニワ)もお披露目されているし、さらには、古墳の場所でレプリカのハニワ行列団がドド~ンと設置されているしで、どう見ても宮内庁が管理しているようには思えなかったので、不思議に思い、ちょこっと検索してみた。


ウィキペディアを、ちらちらと見てみたところ……。


宮内庁が継体天皇陵と治定しているのは、番組で紹介されていた古墳ではなくて、大阪府茨木市の《太田茶臼山古墳》だそうである。
その《太田茶臼山古墳》から1.3キロメートル離れたところにあるという《今城塚古墳》と呼ばれている古墳が、番組で紹介されていた古墳だった。


そして、現在、継体天皇陵の場所については、番組で紹介されていたほうの《今城塚古墳》が有力と言われているらしい。
けれども、宮内庁はそれを認めていないもよう。


そういうことで、番組の中で紹介されていた「継体天皇の陵と言われている古墳」は、宮内庁が管理していないのだなと納得することとなった。


ちょこっと追加しておくと。。。


今城塚古墳・・・6世紀前半に築造
太田茶臼山古墳・・・5世紀中葉頃の築造


ウィキペディア【継体天皇】には、『在位期間507年3月3日? - 531年3月10日?』と記載されている。
築造年代等により、継体天皇陵は《今城塚古墳》が有力視されているらしい。しかし、宮内庁の判断は、継体天皇の陵の場所として『日本書紀』や『古事記』に記載してある地名を重んじ、《太田茶臼山古墳》としているようである…。



ところで、継体天皇の皇后は「手白香皇女(たしらかのひめみこ)」と言うらしい。
皇后の古墳はどこにあるのだろうかと、ふと興味がわき、ウィキペディア【手白香皇女】を見てみると、陵は《衾田陵(奈良県天理市)》にあるとの記載があり、それをクリックしてみたところ、ウィキペディア【西殿塚古墳】のページが表示された。


↓↓↓↓↓


『 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されている。

3世紀後半(古墳時代前期前半)頃の築造と推定され、古墳時代最初期の箸墓古墳に後続する大王墓とする説で知られる。 

 築造年代は手白香皇女の6世紀頃という想定年代に合わないため、真の手白香皇女陵については西山塚古墳(天理市萱生町)とする説が有力視され、代わって本古墳の真の被葬者については卑弥呼(箸墓古墳被葬者か)後継者の台与とする説などが挙げられている 


↑↑(ウィキペディア【西殿塚古墳】より、抜き出し終わり)


なんと。


継体天皇の皇后も、継体天皇と同じく、宮内庁治定の古墳とは別の古墳が、真の古墳であるという説が有力視されているらしい。


ということよりも。


それよりもなによりも、邪馬台国の話が出てきたので、そちら方向にテンションが上がってしまった…。

 

 

私は邪馬台国は九州(福岡)にあったと思っている。

邪馬台国近畿説も気になって興味をもって読んだりするけれども、読んでいるとあーそうかもという気になったりしたこともあるけれども、それでもやっぱり最後は邪馬台国は九州にあっただろうとの思いに落ち着くのである。

 

 

という思いから、『 本古墳の真の被葬者については卑弥呼(箸墓古墳被葬者か)後継者の台与とする説などが挙げられている 』 という部分はスルーできないので……!

 


卑弥呼の墓ではないかと一部で言われている箸墓古墳は「前方後円墳」。

 

 

前方後円墳はヤマト王権の象徴(という言い方でいいのかどうかは分からないけれど)のはずなので、場所も大和にあることからも箸墓古墳はヤマトの王(か、それに準じるような高位の者)の墓なのだろうと思うけれども・・・・あー、書き出すとだらだらと長くなりそうなので・・・・


ウィキペディア【卑弥呼】より、サラッと抜き出すことにして……。


↓↓↓↓↓


 魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。

 

 ……(省略)……卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人 

 卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。 

『 「径」という表現から一応円墳とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や方墳である可能性もある。なお、卑弥呼がヤマト王権の女王であるとする近畿説によって、前方後円墳をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。 


↑↑(ウィキペディア【卑弥呼】より、抜き出し終わり)


おおお、ウィキペディアに記載してくださった方、ありがとうございますm(__)m 

そういうことで、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないという説に、なるほどと思いました晴れ

つまりは、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないと、私モ思います!(^^)/



あー、脱線してしまった……(#^^#)

しかも番組で紹介された4つの古墳のうちの1つだけしかメモできなかった……。

……まぁ、いいか……🌷