いにしえの地響きが…… -3ページ目

いにしえの地響きが……

ご訪問ありがとうございます。
2018年秋ごろから、急に古代の日本のことに興味がわいてきました。
なにかと話題の「邪馬台国」については、現時点(2019年3月)では九州にあったのではないかと思っています。(^^)

『纒向発見と邪馬台国の全貌』( 古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」編集委員会 / KADOKAWA)という本をザクザク読みしていたところ、《 6基調報告 卑弥呼の鬼道 天皇祭祀との比較 磯前順一国際日本文化研究センター教授 》 のなかに、「鬼道」についての説明が載っていた。


初めて知った鬼道の「鬼」と「道」の意味に、あっ、そういうことなの?と思い、とりあえずこれはメモしておかなければ……ということで……。(^^)



「鬼道」とは何でしょうか。『 後漢書 』で卑弥呼の鬼道が「鬼神の道」と言い換えられているように、中国では鬼道に近い言葉として「鬼神」があります。「鬼」は簡単にいうと死んだ人の魂、「神」はそのとおり神です。「道」とは祀る方法です。死んだ人の魂と神の両方を祀る祭祀、それが鬼道の内実だとも考えられるでしょう。邪馬台国時代の中国には儒教が盛んであったわけですが、「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂ふべし」という『 論語 』の言葉にあるように、儒教ではむやみやたらに鬼神を語ったりするのは理知的な態度ではないと考えられていました。その一方で、同じ『 論語 』には「孝を鬼神に致し」という言葉もあり、鬼神をきちんと祀ることは大切であるという教えも述べられています。要するに、鬼神を祭祀するのは大切なことだが、過度にやりすぎたり、いたずらに言葉を弄するのは控えるべきだという見解なのだと思います( 子安宣邦 『 新版鬼神論 神と祭祀のディスクール 』 白澤社 )

当時の中国支配層の思想である儒教における鬼神理解を踏まえて、卑弥呼の鬼道が「よく衆を惑わす」とされるのはどういう意味なのかを考えてみなければならないでしょう。

(P232~P233より)


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……(略)……、朝鮮半島の北部には北方遊牧民と共通するような天の祭祀があったけれども、南に下りてきて、邪馬台国を中心とする倭国まで入ってくると、少なくとも三世紀冒頭の頃には鬼神を祀る祭祀しか見られなかった。
鬼神の祭祀、それは死者の霊魂や、海や山の神々を祀るものです。


(P242より)


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儒教において過剰な鬼神祭祀が遠ざけられていたことを考えるならば、「荒域」と呼ばれる、中華帝国の秩序の外側にいる野蛮人だからこそ、そうした怪しげな祭祀を行い、蒙昧な人々をたぶらかしているのだと『 魏志 』倭人伝の文言 ―― 「よく衆を惑わす」―― は読めるのではないでしょうか。
こうした野蛮な世界だからこそ、身体に刺青を入れたり、
持衰といった奇妙な風習があると、半ば想像を交えながら、邪馬台国を中心とする倭国の世界は中国の儒教的知識を持った官人によって描かれたのでしょう。
ただし、その世界は、朝鮮半島の諸地域と密接な関係のもとに成立したものであり、けっして日本の特定地域の内部に閉ざされたナショナリスティクなものではなかったことを見落としてはならないのです。
中国との外交もまた
公孫氏や帯方郡を通してこそ成り立つものであったのですから。


(P244より)


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( 『纒向発見と邪馬台国の全貌』( 古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」編集委員会 / KADOKAWA)のなかの《 6基調報告 卑弥呼の鬼道 天皇祭祀との比較 磯前順一国際日本文化研究センター教授 》より )



鬼道ってミョーな言葉だなと思っていたけれど……「鬼」とは死者の魂のことで、「道」とは祀る方法……ということらしい。

また、鬼道には、海や山の神々を祀るということも含まれるらしい。

 

 

1世紀中頃(または1世紀末あるいは2世紀初頭) からの倭国は男王が統治する時代が何代か続いたようだけれど、2世紀後半になって地域間の勢力争いが激しくなり倭国大乱と言われている状態に突入し混乱状態になっていたところに、巫女の卑弥呼を女王として立てることで邪馬台国連合というカタチにすることができ、倭国大乱はようやく収まった……ということになったもよう。


卑弥呼の鬼道は、死者の霊?を呼び出したりとか、そういうことをしていたのだろうか?

上記の《6基調報告……》 によると、イタコなどのように、憑依させて言葉をしゃべるような宗教的次元にとどまるものではなくて、政治的な性質のものだというようなことだけれども……。

 


たとえば、過去の時代にカリスマ性を持って君臨していた男王が何人かいたとして、死後もずっと人々の間で言い伝えられていたとして、そのような王たちの霊を卑弥呼が呼び出し、「かの偉大なるナントカ王はこのようにおっしゃった」的なことを皆に伝えたというようなことをしていたのではないかな……とか……?

 


うーん、やっぱり違うのかな……。(^^;

 



ところで、「持衰」という風習については、『魏志倭人伝』に記されていることとして上記の《6基調報告……》のなかに詳しく説明されていたけれど、ウィキペディア【魏志倭人伝】にも載っていた。
以前、ウィキペディアのこのページは興味を持って読んだはずだけれども、すっかりアタマから抜け落ちていた………。😱


倭の者が中國に詣るのに海を渡るときは、いつも一人の男子に、頭を櫛けずらず、虱が湧いても取らず、衣服は垢で汚れ、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰(じさい)と名付ける。もし行く者が𠮷善であれば、生口や財物を与えるが。もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。
( ウィキペディア【魏志倭人伝】より引用 )


↑ たしか、以前読んだときにもちょっとゾッとしたな……ということを、やっと思い出した。

こういう風習を考え出した邪馬台国って、ちょっと不気味だなと思うけれども、「持衰」というのは生贄に似ているような……似ていないような……?

邪馬台国に「生贄」という考えがあったかどうかは知らないけど。(^^;



それから、「公孫氏」という名前を知らなかったので、検索してちらちらと見てみたところ……。

 

 

 

公孫氏とは……。

 

 


後漢末期の190年、国が内乱状態に陥っているのに乗じて遼東半島に半独立政権を立ち上げたのが、後漢の地方官で漢人の公孫度氏( 初代 / ⇒ 2代目:初代の息子 ⇒ 2代目の息子が幼少のため2代目の弟が権力掌握 ⇒ 2代目の息子が権力奪還 → 滅亡 ) という人物だそうである。
2代目になって支配領域を帯方郡などにまで拡大したことから、倭の国々(邪馬台国も含む)は2代目公孫政権に服属することとなり、魏への使者は帯方郡を通して行っていたらしい。
2代目の息子の時代になると、三国(魏・呉・蜀)の争いが本格化するようになり、2代目の息子は魏だけではなく呉ともビミョー?な外交を行っていたけれども、233年に呉との関係を崩し(呉から来た使者の首をはねて、魏に送ったらしい)、236年には魏からも離脱、その後ついに2代目の息子は自ら燕王と称し、漢を継承するという意味の年号《紹漢》を定めて念願の自立政権となった……のだけれども、238年、魏から派兵された2代目の息子討伐軍との戦いに敗戦、処刑され、公孫政権は終わった……ということのようである。


↑ よく分からないけれど、こういうカンジらしい……。(^^;


こういう話を見聞きすると、私は童謡?の『荒城の月』を思い出す……。


童謡?で一番好きな歌である。。。お月見