いにしえの地響きが……

いにしえの地響きが……

ご訪問ありがとうございます。
2018年秋ごろから、急に古代の日本のことに興味がわいてきました。
なにかと話題の「邪馬台国」については、現時点(2019年3月)では九州にあったのではないかと思っています。(^^)

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前記事のメモの続きである🌷


NHK『ミステリアス古墳スペシャル(4)』という番組で取り上げられていた4つの古墳のうちの1つに、福岡県八女市にある《岩戸山古墳》と、その横の広場にある破壊された《石人石馬(人と馬以外にもあるけれど、こう呼ばれているらしい)》という石像(百体に及ぶとか)があった。


この《岩戸山古墳》は、「筑紫君磐井」の墓と言われているそうである。
《石人石馬》のなかのひと際大きな武人の石像(破壊されていなければ約2メートル50センチはあったと考えられるとのこと)は、古墳の主である「筑紫君磐井」をあらわしているのではないかと言われているらしい。


「筑紫君磐井」といえば、「磐井の乱」だろうか。…というか、これしか浮かばないけど。
「磐井の乱」の私の漠然としたイメージでは、九州の北部あたりの権力者である筑紫君磐井という人物がヤマト王権の服属に反旗を翻し、それに怒った継体天皇が磐井討伐の命を出して軍を派兵し、九州の地で磐井討伐軍と筑紫軍は相まみえ激戦を繰り広げるも、結果は筑紫軍の敗戦で終わる……というカンジだろうか。


番組の説明でも、おおまかに言えば、そういうカンジだった。


ただ、番組内では、『日本書紀によると…』という前置きをして説明を始め、画面左下にも 『 「日本書紀」より 』 という字幕が出ていることを目にして、「日本書紀」という部分が強調されているように思えることがなんとなく気になってしまい……。


ということで。


『日本書紀(上)全現代語訳』(宇治谷孟/講談社学術文庫)と 『古事記(付現代語訳)』(武田祐吉訳注*中村啓信補訂・解説/角川文庫)の 磐井の乱について書かれてある箇所を見くらべてみた。
そうしたところ、この件の記述に対しての熱量がずいぶん違うなと感じることとなったのである。


『日本書紀』のほうは、上記の文庫本での約2ページ(足らず)になる分量で、継体天皇が磐井討伐軍を派兵することになった過程や、ヤマト側から見た磐井の人物像などが書かれてあり、少しだけ人物について挙げると、『磐井は西の果てのずるい奴です。山河の険阻なのをたのみとして、恭順を忘れ乱を起こしたものです。道徳に背き、驕慢でうぬぼれています。…(略)…』などと書かれてあった。
また、討伐軍と筑紫軍との戦いについては、互角の戦いで、両軍必死に戦い、やがてヤマト軍大将が磐井を討ち取って、乱を鎮圧したということになっていた。


一方の上記文庫本の『古事記』のほうは、磐井の乱についての記述は、『この御世に筑紫の君石井(いわい)が皇命に従わないで、無礼なことが多くありました。そこで物部の荒甲(あらかい)の大連・大伴の金村の連の両名を遣わして、石井を殺させました。』 と、これだけである。
なんとも、あっさりしていて、両軍勢による激戦があったとは思えないような記述である。


この差は、何だろう……?


ところで、磐井が葬られているという《岩戸山古墳》の横の広場にあった《石人石馬》は、磐井の乱のときに、磐井憎しのヤマト軍によって破壊されたと言われているらしい。


それはつまり、磐井の乱のときには、古墳はすでに完成されていたか、または完成間近だったということだろうと思う。


磐井の乱は、「日本書紀によると」527年から528年になるもよう。
岩戸山古墳の築造年代は6世紀前半らしい。
規模は、墳丘長135mの前方後円墳。
135メートルとは、かなり大きな古墳だと思う。


ここで、素朴なギモンが……!


磐井という人物は、ヤマト王権からすると反逆者であるにもかかわらず、磐井のために築造された大きな前方後円墳に葬られることをヤマト王権は見逃したということだろうか……?


ウィキペディア【岩戸山古墳】を見てみた。


↓↓↓


被葬者は、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つである。

筑紫君磐井は『古事記』『日本書紀』に反乱伝承が記されている(磐井の乱参照)。
また『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所収)には岩戸山古墳の状況や位置が記されており、別区では裁判を思わせる記述もある。
同文によると、
磐井は生前から墓を作っていたが、戦に敗れ放棄したという

なお、古くは石人山古墳を磐井の墓とする説が主流であった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在まで定説となっている。



↑↑(ウィキペディア【岩戸山古墳】より、抜き出し終了)
 

 


磐井は生前から墓を作っていたが、戦に敗れ放棄したというのが事実なら、ここに葬られているわけではないということでは……と思うのだけど…?
磐井を慕う人々が、ヤマト側にバレないようにこっそり葬ってあげたのだろうか?
それとも、ヤマト側は特に気にしなかったのだろうか?


それから、ギモンというか、もしかして……と思ったことがあり……。


ヤマト軍によって破壊されたという《石人石馬》だけど、奈良時代に編纂されたという『筑後国風土記』にそのような記載があったらしい……とか。
しかし、もしもヤマト軍が破壊したのではなかったとしたら………もしかして、地震で壊れたという可能性はないだろうかと、ふと思い、検索してみたところ……。


679年に、《筑紫地震》という大地震が発生していたらしい。
ウィキペディア【筑紫地震】を見ると、かなりの被害があったことが確認されているようで……。
磐井の乱から約150年後のことだけれど、もしかして、もしかしないかな……?
それとも、やっぱりヤマト軍による破壊だろうか……?


でも、磐井憎しで《石人石馬》を破壊するほどなら、岩戸山古墳に磐井が葬られることをヤマト王権は見逃さないと思うのだけど……?


あー、なんだかアタマがぐるぐるとなってきてしまった……😵