喜田貞吉の説

  • 鎌倉時代の『塵袋(ちりぶくろ)』に『薩摩風土記』逸文に「ニニギが日向国噌於郡高茅穂櫛生(くしふの)峯にあまくだり、薩摩郡アタ郡竹屋村にうつる」と書かれているが、風土記は和銅6年5月に詔勅が出されており、和銅6年4月には大隅国として独立している。日向国と書くのはおかしい。

  • 北畠親房の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』には「鋒はニニギが高天原から携えてきたもので、垂仁天皇の時にオオタノミコトが五十鈴川の川上に宝物を守っているところがあると言い、オオヤマトヒメが伊勢神宮を造った」と書かれている。霧島山のことは書かれていない。

  • 霧島山の逆矛は後世の仕業。

  • 『延喜式』にある日向国諸県郡の霧島神社は、承和4年(837)霧島神とは別に高千穂神が別のものとして扱われ、霧島神社と高千穂神社は別のものであるが、霧島山が高千穂でないと断定もできない。

  • 高千穂は「襲(そ)の高千穂」といわれ「襲」は大隅地方であるという説に対して「襲」は山の背にあたる高地を称し、大隅地方に限るべきではない。

    阿蘇の「蘇」や祖母山の「租」も同じ意味。

  • 『釈日本紀』が引用する『日向風土記』の逸文に「臼杵の郡の内、知鋪(ちほ)の郷。・・・日向の高千穂の二上(ふたかみ)の峯に天降りましき。・・・因りて高千穂の二上の峯と日ひき。後の人、改めて智鋪と号(なず)く。」と書かれており、風土記が編纂された時代において古伝説上の天孫降臨の地として認められていたと推定。

  • 『風土記』の「智鋪」は「高千穂」が和銅年間(708~715)の地名を漢字2字にする定めにより略されたと推定。

    梅原猛の考え

  • 喜田の『風土記』逸文の解釈に疑問はないが、記紀の本文にある「笠沙のミサキ」が気になる・

  • 記紀では天孫降臨の地・高千穂が語られる時「笠沙のミサキ」が出てくる。

  • 本居宣長は『古事記伝』で「吾田(あた)は、薩摩国阿多(あたの)郡阿多なり、・・・長屋み、薩摩なることしるければ、笠沙もその国なるべし」としている。

  • 喜田は薩摩半島の笠沙を否定し、宮崎にあると主張した。

  • 宮崎説の根拠は『笠狭大略記、神代図絵』と『日本書紀口訣(くけつ)』

  • 薩摩国の野間半島のあたりには日向神話に関する伝承がかなりあり、薩摩説を否定するには無理がある。

  • 野間岳南麓の小島に面する船ヶ崎にはニニギ一行の船が漂着したところと伝えられており、東南にある黒瀬海岸には「ニニギノミコト上陸地」の碑が建っている。この付近にはニニギが皇居を置いたという「宮ノ山」という遺跡がある。

  • 「笠沙」の地名考証は薩摩国説のほうが、日向国説よりも記紀に忠実。

  • 記紀の天孫族の行程の記述を再考

  • ニニギは天からやってきたと記されるが現実は海から来たと考え、この伝承と一致するのは野間半島の笠沙しかない。

  • ところが霧島を高千穂と考えると稲作に適していない。「ソシシの空国(むなくに)」とは稲作に適さない不毛な土地の意味であろう。

  • 再度『日向風土記』逸文を考証する。

  • 「ニニギが日向の二上の峯に天降ってきた」という記述は、『風土記』は和銅6年(713)の詔によってできたものであるから、臼杵郡内の智鋪の里、

    すなわち現在の西臼杵郡高千穂町で間違いない。

  • 「チホ」とは霊力をもった稲穂という意味で、「智鋪の郷」すなわち高千穂は、稲作農業の地。

  • ニニギの父、マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコトは「正しく勝つ、私は勝つ、勝つ力のすばやい霊力をもった天孫族の立派な威力のある稲穂の長者」という意味。

  • 「稲穂の長者」とタカミムスビの娘「すぐれた布の姫」の間に生まれたのがニニギ。

  • ニニギの子、山幸彦は「天孫族の子供で、多くの稲穂が出る神聖な力を有しているミコト」という意味。

  • 天孫降臨の話しは、稲作農業と養蚕の技術を持って高千穂に来て支配者になった種族の話。

  • 霧島は稲作に適さず、稲作に適する「千穂」という地名に欠けている。

  • ニニギが降臨した場所を西臼杵郡の高千穂としたら、その後の記紀の記述と一致するが、霧島だと説明できない。

  • 天孫族は高千穂に最初の根拠地をつくり、狭いので現在の西都市に至る。

    ニニギと山幸彦の2代で日向の豪族が天孫族に服した。天孫族の勢力は南へと伸び、さらに西へ伸びて大隅・薩摩のハヤト族と提携し、南九州一帯を支配下に収めた。余ったエネルギーで大和に攻め上った。

    ・こうした一連のドラマで把握すると、ニニギの降臨した場所は西臼杵郡の高

    千穂がふさわしい。

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  • 菊池の考え

  • 高千穂は当初、現在の高千穂町にあり、ニニギが降臨してから高千穂峯に移動した。

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  • 「神代の国際都市・高千穂を歩く」の要点

  • 記紀と同じ伝承だけでは、かえって真実性が疑わしい。

  • 記紀に述べられていない伝承や、少し違った伝承の存在が大事。

  • 高千穂にはサルタヒコを祀る荒立(あらたて)神社がある。

  • 高千穂神社は平安時代の記録に登場する神社で、高千穂皇神(すめがみ)とミケヌノミコトを祀る。

  • ミケヌノミコトは神武天皇の4番目の兄で、記紀ではミケヌノミコトは常世の国に行ったと書かれている。

  • 高千穂神社の伝承ではミケヌノミコトは大和征服後に故郷に戻ったとされている。

  • ミケヌノミコトが高千穂に戻ると、鬼八(きはち)という荒ぶる神に支配されていた。

  • 高千穂にはミケヌノミコトが鬼八を倒した話しが各所に残っている。

  • 阿蘇神社にも鬼八伝説が残っている。

  • 阿蘇神社の主神は神武天皇の子カムヤイミミノミコトの子タケイワタツノミコト。

  • 高千穂には二上山(ふたがみやま)があり、『日向風土記』の逸文では、ニニギノミコトは二上山に降りたという。

  • 二上山は高い方を男岳(おだけ)、低い方を女岳(めだけ)といい、山中の二上神社にはイザナギノミコトとイザナミノミコトを祀っている。

  • 高千穂には弥生時代後期の工字突帯文土器と免田式土器が併存している。

  • 高千穂には神楽の座が21あり、神楽が盛んなところ。

  • 高千穂神楽はミケヌノミコトに殺された鬼八の鎮魂の祭りである「猪掛(ししか)け祭り」が起源とされる。

    菊池の考え

  • 鬼八伝説は、九州南部の原ヤマト王権(天皇家の祖先)の主力勢力が畿内へと去った(神武東征)後の混沌とした状況を伝えていると思われる。九州に残った原ヤマト王権(ミケヌノミコトやタケイワタツノミコト)の勢力は後に宮崎平野を中心に勢力を維持して中央との結びつきを強めるが、その他の地域では独自の勢力として存在した。それが、熊襲や隼人や土蜘蛛と称されるようになった。

  • 記紀神話の内容は神楽や祝詞にも反映されており、神楽が高千穂に残っているのは意味がある。