考察
皆さんは、伊勢の神宮に何故、皇大神宮が2つあるのか考えた事はありますか❓
そして、外宮から参拝する理由も考えた事はありますか❓
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240329/22/kodai-kousatu/2e/01/j/o0790050015419006104.jpg?caw=800)
それは、魏志倭人伝の中に書いてある【二人の女王】の存在があることから分かることですね❗
では、二人の女王とは一体誰❓
それは、初代の天照大御神様【卑弥呼様】と豊受大御神様【豊玉比売様】の存在のことです❗
崇神天皇は、2つの皇大神宮を分けてしまいました❗
疫病を理由にしていますが、その理由は今の国会の答弁と思って良いと思います❗
理由は何でも良いのですよ❗
とにかく天照大御神様と豊受大御神様を分けたわけです❗
そして、最初に垂仁天皇の御代にトヨスキイリヒメ様から受け継ぎヤマトヒメ様が徳島県から伊勢に行ったのは天照大御神様でした❗
そして、雄略天皇の御代に豊受大御神様が徳島県から伊勢に行きました❗
豊受大御神様が丹後から伊勢に入ったわけではありません❗
徳島県の持つ天皇陛下の歴史を【磯上乃古事記】(いそがみのふることふみ)と漢字を充てて訓読みで読みます❗
本当なら【五十神古事記】と書いても良いのですよ❗
しかし、その漢字を充てるとバレるリクスがあるために【磯上】と充てたと思われます❗
古事記(こじき)の中には、ヤマトヒメ様が伊勢の五十鈴川の畔の御告げを聞いて五十鈴川に鎮座していますね❓
【五十鈴川】(いすずがわ)
【五十神】(いそがみ)
そういう事です❗
五十の音霊を持つ日本国そのものを喩えた話です❗
縄文時代から弥生時代と繋ぐ場所が、五十鈴川の畔です❗
ここまで読んで頂いた方には、何のことなのかを理解されているかも知れませんね❗
縄文の嘗ての形の神宮での祭り方と持統天皇からの祭り方は、式年遷宮という形に変えたのです❗
だから、正殿の敷地を1つ潰して縄文の形を隠したのです❗
日本の成り立ちが天照大御神様側のチームだけでヤマト政権が成り立っていたわけではありませんから、もう一つの勢力である豊受大御神様も日本国民からの崇敬の必要性があって当然との認識で、二神は徳島県から出る事になったのです❗
国譲りが徳島県で行われ、稲作が盛んになったからこそ今の日本国があるのですから、その功労神にも崇敬があって当然なのです❗
もう、これを話しても良いと思いますので書くことにしました❗
外宮の豊受大御神様には、たくさんの名前が世の中で使われているために混乱しますね❗
しかし、別神だと思っていた神様は、同神であるということです❗
●天照大御神様
・卑弥呼様
・日巫女様
・シャーマン
・倭国女王
・大日如来様
・お不動様
・不動明王様(荒御魂)(瀬織津姫様)
●豊受大御神様
・大宜都比売命様
・女王様(国を譲った側)
・お稲荷様
・倉稲魂様
・宇迦之御魂様
・鹿屋野姫様
・奇稲田姫様(クシナダヒメ様)
因みに奇稲田姫様(クシナダヒメ様)の兄は経津主神様(フツヌシ様)です❗
この別名を全て同神と受け入れることは、中々出来ないかも知れませんね❗
これまで、たくさんの神様が居るように見せられて来たのですから❗
全国の神社数で一番多いのは、八幡神社です❗
次に稲荷神社、そして、熊野神社❗
何故、八幡神社が一番多いのか❓
それは、イスラ・エルの意味が【神と闘う人(神)】という意味を持ち、八幡の語源がヤハウェから来たものだからです❗
だから、源氏が戦いの神様を崇敬していたと思われます❗
信仰を八幡神様へと日本中が持つようになりました❗
一般的には応神天皇へのリスペクトと言われてますが、本来の源氏は元々皇室の武将にとっては、皇室の本来の国であったイスラ・エル(神と戦う者共)である、八幡(ヤハウェ)に願うというのが筋だと思います❗
二番目に多い稲荷神社は、豊受大御神様が、稲荷神社の祭神様だからです❗
日本は、稲作の発展によって成り立ちます❗
豊受大御神様の別名は、宇迦之御魂神様(ウカノミタマ)、奇稲田姫様(クシナダヒメ)です❗
クシナダヒメ様と言えば、八岐の大蛇退治で素戔嗚尊様のお后と教えられてきましたね❓
ここでは、そうではありません❗
三番目に熊野神社が多いのは、素戔嗚尊様が最初の天皇陛下だからです❗
古事記では暴れん坊で高天原の追放扱いですが、それは、国民へのプロパガンダです❗
当時の結婚相手は、恋愛もあったのかも知れませんが、戦略的な意図が多いと思います❗
そう言う意味で奇稲田姫様(豊受大御神様)(豊玉比売様)とは、どんな血筋だったのかを知らなくてはなりません❗
そう、誰の娘なのかを知らなくてはなりません❗
一般的にはアシナツチ様の娘になっていますよね❓
又は、海神族で龍宮伝説を持った姫様だと認識されてますよね❓
それが、プロパガンダというものです❗
そこが、1つ間違える事で伊勢に祭られた神様の行方を知ることが出来なくなりますから、それが、海神族に仕立てるプロパガンダが、成功する訳です❗
しかし、それでは、伊勢の神宮に外宮として祭られ、尚且つ、最初に参拝するという仕来りは生まれないと思います❗
だから、もっともっと日本国建国に関わる為の功労者という意味において影響力のある神様でなくてはなりません❗
武力行使による制圧統治をする当時のリーダーと言えば、国譲りで活躍したあの神様です❗
あの神様の娘だからこそ、伊勢の神宮に祭られたと言うことです❗
そして、伊勢に祭られたからには、内宮の天照大御神様よりも絶大な影響力を徳島県(阿波国)ではあったと分かりますよね❓
素戔嗚尊様が、ソロモンの秘宝のアークを持って日本に入り、後に天照大御神様が国璽(ユダヤ国印)を持って日本に入りました❗
天照大御神様(日巫女)がユダヤ国王の国璽を持ってきたということは、とても一大事なことですね❗
日本国を新たなイスラ・エルにへと建国する誓いを持って遥か遠くのイスラ・エルからやって来たという意味ですからね❗
古事記の改竄、編纂は、強力な仏教の影響力の下で作られていますから、真相を書いてしまうと乗っ取られる可能性もあったと推測します❗
編纂出来たのは、聖武天皇の命令による日本各地の風土記を書かせた記録や徳島県(国生み国)の天皇陛下の足跡である磯上乃古事記があったからです❗
もしかするとホツマツタヱも参考にしていたのかも知れませんね❗
ただ、ホツマツタヱは、余りにも詳細し過ぎている様に感じます❗
徳島県の天皇陛下の歴史(皇統史)である【磯上乃古事記】(いそがみのふることふみ)(訓読み)を敢えて、改竄編纂して、その古事記(こじき)(音読み)こそが我が日本の最初の歴史書と目眩ましにしたとも思えます❗
このアイディアは、天武天皇と持統天皇の戦術だったのかも知れません❗
だから、天武天皇亡き後は持統天皇が藤原不比等や太安万侶に便乗して伊勢に神宮を構えたと思われます❗
元々あった大きな伊雑宮が、現在の内宮と伊雑宮とに分けたと思われます❗
そして、その時に縄文の神様も一緒に隠されたと思われます❗
聖武天皇や聖徳太子や空海も必死に仏教の力を抑え込むために、仏教に便乗しているふりをしながらも偉大な日本の神様を隠して仏像に魂を入れたと思います❗
それが、大日如来、薬師如来、阿弥陀如来、毘沙門天、地蔵菩薩等の形としたと思います❗
これらの仏像は、それぞれの神様なのです❗
By 古代の赤椿