考察


日本国の大典が、ハ倉比売神社です❗

つまり、日本国の全ての神社の元宮がハ倉比売神社であると阿波国徴古雑抄の古文書には【ハ倉比売神様の祈年月次祭は邦国之大也】とされています❗

天照大御神様の諱を【撞賢木厳御魂天疎日向津比売】(つきさかいつのみたまあまざかるひむかつひめ)⏩向津姫❓

ん❓

何処かで聞いたことある名前ですね?!


そう❕


【瀬織津姫様】を思い浮かべますよね❓

兵庫県の六甲山(むかつやま)には、向津姫様の磐座がありますし❗


🔯六甲山❗
🔯六甲山にある磐座❗
六甲比売大善神様❗
つまり、瀬織津姫様(向津姫様)(大日霊貴様)(天照大御神様)(八倉比売様)(卑弥呼様)と、この古文書を元に考えれば、瀬織津姫様と同神と言うことにも繋がりそうですね❗

 水の神様として祭るのは、阿波国の大河川の吉野川には、大泉神社として祭神を大泉神様(八倉比売神様)(天照大御神様)(瀬織津姫様)(日向津姫様)と名前の変化も見られますよね❗


現在、ハ倉比売神社は、前方後円墳の上に鎮座しています❗

ん❓何故そこにあるの❔

お墓ですよね❔


実は、気延山の一部の杉尾山には、天照大御神様と誓約(うけい)を交わして、この阿波国の大王となっていたスサノオ様(牛頭天王様)(神武天皇)の古墳(前方後円墳)です❗


その一画を削って八倉比売神社が建てられたのです❗

つまり、前方後円墳の形をした円では無い方に八倉比売神社の神殿を建て、五角形の磐座を円側に建ててあります❗

とんでもないことですね❗

スサノオ様のお墓の上に天照大御神様の神社ですから、スサノオ様はたまったものではないでしょうかね❗

スサノオ様の本意は分かりかねますが❗


とは、言っても、こちら阿波国のスサノオ様(牛頭天王様)の古墳は、移設されているのです❗


え❓

まさか❓


だから八倉比売神社が遷座されたのです❗

古墳の移設は、それはもうお墓の移設ですから、余程の一大事の事が背景にあるというものです❗


では、スサノオ様は、どちらにて眠っているのですか❓


皆さんも知っている阿波国から遷都した奈良県の桜井市です❗

桜井市には、大神神社(おおみわ神社)があります❗

世間では、大国主様が主祭神様だと思っていることでしょうが、スサノオ様です❗

何故ここに❔


それは、西日本を統一したからです❗

統一したのは神武天皇では❓

その通りです❗


ということは❔


🔯スサノオ様の遷都した都が奈良県にあるなら御陵もここにあるのでは❓

この話は、次の415アヤでお話します❗


八倉比売神社から西北には五角形の天之真名井(あめのまない)がありますが、この場所こそが、神田(神饌田)であり、12段の棚田になっていた高天原の神田をスサノオ様が暴れて破壊した神話の下りの所です❗

棚田という段々となっている為に、上の棚田一枚を破壊すると下まで水が流れ落ちて全て台無しとなったお話ですね❗


さて、ハ倉比売神社の裏へ行くには、階段を上るのですが、階段の手前は元々土が盛られていた場所です❗

その土を積み上げて小山を造り、その小山を神聖な場所の預言者である女性のみが入れる男子禁制の場所を造ったのです❗

その場所こそが、【黄泉の国】なのです❗

【黄泉の国】と漢字を宛てるから変な話になりますが、敢えて宛てるなら、【預見の国】です❗

【預言者の神聖な敷地】のことです❗

イザナミ様を亡くして、イザナギ様が男子禁制の黄泉の国に入ったので、女性預言者達がイザナギ様に怒って追い出していた話は神話に出てますね❓

黄泉の国は、気延山の頂上にある預言者(女性しか成れない)の棲家だったということです❗


魏志倭人伝の一節には、【卑弥呼以死、大作塚系百余歩。殉葬者奴婢百余人】とあり、訳すと【卑弥呼が亡くなった時には倭人は直径百余歩の塚を大変に大きなものとして造った。仕事人は百人余りいて葬儀が行われた。】というものです❗

葬儀は、【鳥葬】(ちょうそう)です❗

死体を鳥達が食べて、鳥達が飛び立つのは、天に還る❗

ということになるからだと❗


🔯これは、チベットの鳥葬の儀式です❗


ハ倉比売神社の奥の院は、五角形の磐座なのですが、阿波国の石は、青色ですから、魔除けとして使われています❗

五角形の磐座の上に鶴石と亀石とで【鶴亀石】で【ツルキ石】【剣石】となりますね❗

【剣石】とは、由緒では、【永遠の命の象徴❕】としていることから、この剣石の形が【男根】で、それが、収まっている箱が【女陰】を表していると思われます❗

スサノオ様と天照大御神様の系統【血統】が永遠に続きます様にとの願いがあると思われます❗

その思いが天皇陛下の系譜と言うことなのでしょう❗

永遠に天皇【ユダヤ民族のユダ族】の家系【天孫】【天津神】が、日本の縄文人【国津神】の女性を妃に迎える約束を今日まで続けていることになっていると思われます❗



🔯箱(女陰)の中に剣石(男根)❗


🔯【剣】とは、天照大御神様(鶴)とスサノオ様(亀)の誓約(うけい)である【永遠の約束】のことなのでしょう❗

だから、三種の【剣】を神宝の1つとするのは、ユダヤ民族の永遠の命の約束の象徴と捉えられます❗

また、亀石のスサノオ様は、鶴石の天照大御神様に自分の身柄を預けた事を古事記の神話の下りの一節【天照大御神様への剣の献上】と言うことにもなるでしょう❗

【剣石】とは、鶴と亀の微笑ましい平和の祈りが詰まっていると思います❗

現在は、世界一の長い建国歴ですからね❗

それが、伊勢の神宮に表していると思われます❗

内宮と外宮とは、鶴石と亀石そのものだと思われます❗


先程も言いましたが、箱の様な中に剣石が収まっています❗


つまり、鶴石は、天照大御神様であり、亀石は、スサノオ様です❗


元々、杉尾山山頂に奥の院は、あったということですが、何故、気延山山頂へ移したのか❓

移したのは、593年のことだと社伝に載っています❗


時の権力者が、つまり、大和朝廷にとっての権威なのでしょうか❓

伊勢の神宮に天照大御神様を中心とする国家を築く為の布石なのかも知れませんね❗

🔯私なら、人のお墓の上に神殿を建てるなんて❗

と思ってしまいます❗


また、奈良県に遷都し、平城京の建築時には、阿波国からこの青石を運んだのです❗


古事記を神代の世界とし、神話のお伽噺にしたのは、白村江の戦いで大和朝廷、百済軍が唐、新羅連合軍に負けて、植民地にされてしまう恐れがあったから、秘密保持のために藤原と太安万侶が、阿波国の歴史(正史)を隠そうとした古事記の編纂と思われます❗

古事記の正式名を伏せたのも隠蔽する為と思われます❗

本来の古事記の正式名は、【磯上乃古事記】(きそかみのふることふみ)です❗

阿波国の本来の歴史を大雑把に暗号を込めて有り得ないと思われる様に作り変えられた作品ということです❗

しかし、この磯上乃古事記(いそかみのふることふみ)を読み解けば、阿波国の正史の事だと理解することになるのです❗

そして、伊勢の神宮に隠された意図的な造りも理解することに手助けしてくれるのです❗


では、次のアヤでは、スサノオ様のお墓(古墳)の場所をお話したいと思います❗


By 古代の赤椿



神社

徳島市国府町西矢野531 (平成25年1月7日)

東経134度28分03.36秒、北緯348.8駅の南西2km程の辺り、阿波史跡公園の中、杉尾山の頂上近くの前方後円墳上に鎮座しております。又、十二社詣りの一社でもあります。

御祭神 大日孁女命(別名天照大神)

御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観十三 年(八七一)二月二十六日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 二年(一一八五)三月三日正一位となる。

御神紋 抱き柏
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は海抜116米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(山頂海抜212米)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、 余りにも知られていない。
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより2500年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永二年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。

矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも
柿本人麿(萬葉集収録)

当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然では ない。
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736~41)まで十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久2年(1070)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。
境内由緒書き より

境内より700m程東、参道入口の一

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年代不明)