昨日に引き続いて今日も帰りが遅くなってしまった。
最近はこのブログに発信する事が楽しくなり始めているのだが、更新できないと何となく一日がしまらない気がする(^^;もう既にブログ中毒?
こんな日は深夜にも合うクラシックを聴きたくなる。そんな時は弦楽器中心で聴く事が多い。
モーツァルトはやはりぴったりとはまる。余計な思索にふける事なく、今、このひと時をやさしく包み込んでくれる、というのだろうか、ヒーリングブームの昨今、癒しの音楽としてもぴったりだ。
マッケラスのモーツァルトを引っ張り出した(テラーク)。オケはプラハ室内管弦楽団、84年に芸術の家ホールで録音。さすが、テラークというか、ホールトーンをたっぷりと取り込んだ録音がまず素晴らしい。ワンポイントマイクでの収録が基本のレーベルなので、特定の楽器が強調される事なく、客席に身を委ねてホールの残響の余韻までも楽しむ事が出来る。プラハにあるこのホールはチェコ・フィルの本拠地でもあるが、すぐに、ああ、このホールっていい音で鳴るんだろうな、という期待を抱かせてくれる。
そしてもちろん、マッケラスが指揮するモーツァルトの素晴らしさ。このオケでモーツァルトの交響曲全曲集を完成させているが、今日は「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で始まる小品集を。彼は研究家肌の指揮者だ。ヤナーチェクの権威でもあるし、ヘンデルやモーツァルトを始めとする古典派も得意としている。でも気難しくなる事なく、万人に受け入れられる演奏をするので、人気も高い。このモーツァルトもモーツァルトならではの抜群のテンポ感に感心させられる。小説家の石田依良氏も述べていたが、モーツァルト演奏に求められる「絶対のテンポ感」というものがマッケラスの指揮する演奏にも備わっているように思う。
故意でなく、何事も自然体で進んでいくのだ。ここに「ヒーリング」=「癒し」との相関関係もあるのかもしれない。そういえば自分の好きなクーべリックやワルターにもこの要素があるように思う。
疲れた心と体をリセットできる。クラシック音楽にはそんな効用もあるんだと思う。
最近はこのブログに発信する事が楽しくなり始めているのだが、更新できないと何となく一日がしまらない気がする(^^;もう既にブログ中毒?
こんな日は深夜にも合うクラシックを聴きたくなる。そんな時は弦楽器中心で聴く事が多い。
モーツァルトはやはりぴったりとはまる。余計な思索にふける事なく、今、このひと時をやさしく包み込んでくれる、というのだろうか、ヒーリングブームの昨今、癒しの音楽としてもぴったりだ。
マッケラスのモーツァルトを引っ張り出した(テラーク)。オケはプラハ室内管弦楽団、84年に芸術の家ホールで録音。さすが、テラークというか、ホールトーンをたっぷりと取り込んだ録音がまず素晴らしい。ワンポイントマイクでの収録が基本のレーベルなので、特定の楽器が強調される事なく、客席に身を委ねてホールの残響の余韻までも楽しむ事が出来る。プラハにあるこのホールはチェコ・フィルの本拠地でもあるが、すぐに、ああ、このホールっていい音で鳴るんだろうな、という期待を抱かせてくれる。
そしてもちろん、マッケラスが指揮するモーツァルトの素晴らしさ。このオケでモーツァルトの交響曲全曲集を完成させているが、今日は「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で始まる小品集を。彼は研究家肌の指揮者だ。ヤナーチェクの権威でもあるし、ヘンデルやモーツァルトを始めとする古典派も得意としている。でも気難しくなる事なく、万人に受け入れられる演奏をするので、人気も高い。このモーツァルトもモーツァルトならではの抜群のテンポ感に感心させられる。小説家の石田依良氏も述べていたが、モーツァルト演奏に求められる「絶対のテンポ感」というものがマッケラスの指揮する演奏にも備わっているように思う。
故意でなく、何事も自然体で進んでいくのだ。ここに「ヒーリング」=「癒し」との相関関係もあるのかもしれない。そういえば自分の好きなクーべリックやワルターにもこの要素があるように思う。
疲れた心と体をリセットできる。クラシック音楽にはそんな効用もあるんだと思う。