本年3月にバッハ「ヨハネ受難曲」の本番ステージに立ってから、この曲は自分にとって特別な曲となった。そんな「ヨハネ受難曲」を、本番前からお手本として聴き、今でもi-podに入れて毎日のように聴いている演奏がある。ヘルムート・リリング指揮によるシュトゥットガルト・バッハ合奏団&ゲッヒンゲン聖歌隊によるもの。
今回、バッハの「ヨハネ受難曲」を歌うにあたり、多くの演奏家の名盤を聴いてきた。バロック界の旗手、シギスヴァルト・クイケンや、バッハの権威カール・リヒター、リヒターの弟子にもあたるハンス・マルティン・シュナイト、また、2年前に感動的な名演を聴かせてくれた鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパン・・・。その中で自分のマイベスト盤といえる演奏は、ヘルムート・リリング指揮のものだった。
本番を終えた今、ヨハネ受難曲の中でも好きな4曲をピックアップし、彼らの演奏から受けたバッハの印象について綴ってみたい。
ヨハネ受難曲より
「Eilt, ihr angefochtnen Seelen」(BWV48)
「Ruht wohl, ihr heiligen Gebeine」(BWV67)
「In meines Herzens Grunde」(BWV52)
「Ach Herr, las dein lieb' Engelein」(BWV40)
ヘルムート・リリング指揮 シュトゥットガルト・バッハ合奏団&ゲッヒンゲン聖歌隊
(1996年3月25~29日録音、ジンデルフィンゲン市立ホールにて収録、ヘンスラー国内盤)
曲に注ぎ込まれた情熱、テンポの運び方、オケと合唱のバランスの良さ、ソリストの巧さ・・・上記の楽曲だけでなく、ヨハネ受難曲の楽曲全体を通して、自分の中で、まさにバッハはこうであってほしい、と感じる演奏だった。例えば、「Eilt, ihr angefochtnen Seelen」(BWV48)でソロを務めるバスのアンドレーアス・シュミットと、オケ、合唱の三位一体の素晴らしさといったら!
時代考証に基づく古楽器演奏が主流となってきた昨今、古楽器の響きも新鮮だが、楽器の特性なのだろうか、曲の中での起伏やうねりといった感情的な表現を行う点では、どちらかというとさらさらと流れてしまいがちで、いま一つしっくりこない部分もあった。その点、完成の域に達した現代のモダン楽器が、少なくとも「ヨハネ受難曲」においては自分の肌に合っていたようだ。1965年にこの合奏団を組織して以来の、リリングとオケとの長年の信頼関係もこの演奏には現れ出ているのだろう。
リリングに共感するのは、崇高なバッハ像ではなく、実に人間的なバッハ像が描かれているという点。人間の喜怒哀楽といった様々な感情が、キリストの受難というテーマを通じて表現されている。今回、本番のステージで共演したマエストロ・ヘンシェンとの共通点も感じる。ちなみにリリングは、その長いキャリアの中で、1967年にニューヨークでレナード・バーンスタインに師事を受けているという。情熱的な演奏になるのもどこかうなづける。
普段の帰りの電車の中、上記の「ヨハネ受難曲」の楽曲をふと聴きたくなる事がある。そんな時、上記の楽曲を順番通りに聴く。聴いていくうちに、心がリセットされていくような感覚になる。特に疲れている時に聴くと、浄化されるような気持ちになって心が満たされる。何かと騒々しいこの世の中も、バッハを聴くと目の前に起こる現実から一歩引いて眺められる、というか、世の中を客観視できるものがある。バッハの楽曲には、人間が生きていくための源泉が湧き出ているのかもしれない。