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あえて第4番だけの録音にプレヴィン側が留めたのか?それとも交響曲全集への計画がレコード会社側の何らかの理由でストップしてしまったのか?
指揮者アンドレ・プレヴィンがロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と残したブラームスの交響曲第4番のディスク(1987年6月25・26日録音、ワトフォード・タウン・ホールにて録音、テラーク輸入盤)を聴く度、そう思ってしまう。かくもブラームスの第4番はこんなにも美しかったのか、と思わせる名演。ロイヤル・フィルからまるでシルクのような手ざわりの美音を引き出している。その手ざわりは、まるでウィーン・フィルのよう。自分にとって第4番は冒頭のストリングスの旋律美が一つの決め手となっているが、プレヴィンのオケから引き出す音色やテンポ感、フレーズ間の呼吸(ため)が、ブラームスの音楽とぴったりくるのだ。
プレヴィンの指揮で聴いていると音楽が決してうるさく主張せず、ビューティフルで温もりある音楽に聴こえるから不思議だ。それは以前エントリーした同オケとのラフマニノフの交響曲第2番ロス・フィルとのロシアン・アルバムでも感じた事だった。

プレヴィンのブラームスには実は意外な接点がある。先日観たN響で登場したサー・ネヴィル・マリナーが師事したピエール・モントゥーは、ブラームスと親交があり、ブラームスと共演した経験もあった、というマリナーのコメントだ。モントゥーといえば、プレヴィンの師匠でもあり、そうすると、マリナーもプレヴィンもブラームスにとっては孫弟子という関係になる。これは自分にとって意外な発見だった。

さて、冒頭の2つの疑問に話題を戻したい。自分なりに一つの謎が残る。プレヴィンはロイヤル・フィルとこの第4番を「大学祝典序曲」のカップリングと共に1987年に録音した翌年1988年の7月に、今度はブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」(ピアノ:オラシオ・グティエレス)と「ハイドンの主題による変奏曲」を、そして1990年には「ピアノ協奏曲第1番」(ピアノ:同上)と「悲劇的序曲」をいずれもテラークに録音残している。
つまり、「交響曲第4番」を最初に録音し、その後ブラームスの「ピアノ協奏曲」全2曲、そして代表的な3つの管弦楽曲を録音しながらも、肝心の交響曲は結局第4番しかレコーディングしていないという事になる。通常ならこの代表的な3曲の管弦楽曲は交響曲全集には欠かせないカップリング曲となるにも関わらず、だ。

ここで興味深い事実がある。日本語ライナー・ノーツにブラームスと交響曲第4番を愛するプレヴィンのエピソードについて触れられていた。プレヴィンが初めてブラームスの演奏は聴いたのは5歳の頃、ベルリン・フィルの定期でのオール・ブラームス・プログラムだった事、また子供の頃、地元の社会人オケ(中古車販売業者管弦楽団)が演奏したブラームスの交響曲第4番に、アマチュアな演奏ながらもブラームスを聴く喜びを感じた事、MGM映画のスタッフだった若かりし日のプレヴィンがミュージシャン達とのブラームスの交響曲第4番のリハーサルの場に父を招いた事・・・。

そこで、ここからは自分の推測を記したい。
プレヴィンは1992年までロイヤル・フィルの首席指揮者として在任していたので、ブラームスの残りの3曲の交響曲は本人の意思さえあれば、レコーディングできる環境にはあったはずだ。
上記の経緯やエピソードからすると、冒頭の2つの疑問は前者の意図があったと推測できる。つまり、プレヴィン側が交響曲全集の完成には慎重な姿勢をみせた事だ。裏を返せば、愛着があり、演奏解釈にも自身のあった第4番だけは、テラークへのブラームス録音への取っ掛かりとして残した、という事にもなる。
プレヴィンは今年78歳。いずれにしても、プレヴィン・ファンの一人としては元気な内に他の録音も残してほしい、と願うのみだ。晩年のジュリーニではないが、ウィーン・フィルとなら相性も良さそうだが、このロイヤル・フィルともう一度共演があると嬉しい。

色々と蛇足な内容となってしまったが、ロンドン・フィル、ロンドン響、ハレ管、ロイヤル・フィルと4つの英国オケでブラームスの交響曲を堪能するいい機会となった。