茶席に入るとまず床の間の掛軸に対して一礼する。
この作法は侘び茶の祖と伝えられている村田珠光が一休禅師に参禅して、印可を受け,その証として圓悟克勤禅師の墨蹟を授けられ、それを掛けて茶の湯をしたという伝承を拠り所にしているところが大きい。
我々が掛軸に向かって一礼をするのも、この場にはいらっしゃらないけれども、その掛軸を通してその言葉を書いた人に教えを受けたいという謙虚な気持ちから、頭を下げる。
村田珠光も直接ではないにしろ、圓悟から掛軸を通して禅の教えを受けてお茶をしたということだ。その伝承から茶禅一味の思想も生まれる。
言葉の意味、芸術性も大切だが、それ以上に誰が書いたのかが肝要である。大徳寺の僧の書を掛けるのも、流儀の歴代宗匠の書を掛けるのも、それを書いた人の徳を賞翫するからに他ならない。茶会はたんなる美術鑑賞会や作品の発表会ではないのだ。
それ故、床の間には著名な書家だから、美しい字だからとか、有名人だからといって掛けるものではない。ましてや自分の書を掛けるのは、もっての他ということになる。
さて、近衛家熙のお抱えの医者侍医であった山科道安が、享保9年から同20年までの間、家熙の言行を記述した「槐記」には
「総じて表具の取り合わせと云うことは、第一に一軸の筆者を吟味して、この人はどれほどの服を着るべき人ぞと工夫して、その人に相応の切を遣うこと、これ第一のことなり。今の人、沢庵、江月、利休、宗旦などに、古金襴を遣うことは何事ぞや。不相応は勿論、いと文盲なることなり。古き表具に、左様なるは一軸もなし」
天皇や公家、南宋の高僧と比べると、沢庵、江月、利休、宗旦なんかは格が違うというわけだ。必然的にそこに使われる裂も異なってくる。掛物はたんなる道具ではなく、人そのものを顕すからだ。
仏教伝来と共に中国から入ってきたと伝えられる表装は本紙を損なわないための保護のためであった。茶の湯が盛んになるにつれて、表装の意味合いも変化してくる。装飾性を帯び、さらに掛軸に尊厳を与えた。
床の間の前でまず一礼してから始まる茶の湯。一礼するに相応しい人物でないと禍根を残すことになる。
『槐記』には次のようなエピソードが記されている。
「春屋は遠州がもてはやしから、沢庵、江月と共に皆が床の間に掛けるようになった」と。春屋和尚は遠州の参禅の師であるだけでなく名だたる茶人たちとの交流もあった。現在、茶人たちが好んで大徳寺系の僧侶の掛軸をかけるようになったのは遠州からという事になる。
しかし、金森宗和は春屋が大嫌いであった。ある時、茶会に行ったら床の間に「例の坊主めが床にいた」とバカにしていた様子が述べられている。”例の坊主め”とはなかなか辛辣な物言いである。
古来から服は特別なもので、人も身分によって服装の規定があった。服装を見るだけでその人の身分がわかった。現代でも制服があるから、あの人は警察官だ、消防士だとわかる。制服がなくても襟元につけているバッジによって、赤紫色のモールに金色の菊花模様があるから、あの人は国会議員だというように、着ているもの、身につけているものによって、その人の身分を証明する。
8世紀に大宝律令が制定されるなど律令制が国の根幹に据えられると、民衆に到るまで服装というのは政府から規制、統制されていく。
織物をはじめとする裂は、律令の時代には貨幣と同様に扱われたため、現代の造幣局と同じように大蔵省に錦・綾などを織り、また、染め物をつかさどった織部司が置かれた。宮内省には内染司、中務省には縫殿寮など主要な役所にそれぞれ役割を担わせた。
まさに、天皇と一番近いところにあり、織物、裂は特別なものであったことがわかる。
茶入にも裂が添えられる。茶入も当然その格によって使用する裂も吟味されなければならない。
『松屋日記』 には裂の格を伝えるエピソードとして「備前肩衝に名を布袋と利休のつけたるは、袋白地の小紋の金欄に大たるを、扨々(さてさて)過分過ぎたる袋とて布袋肩衝とつけし也」とある。
利休は侘びた備前の茶入に、あえて華やかな金襴の袋を取り合わせた。備前には過ぎた袋ということで布袋となづけたのだ。
南方録には茶入に袋が添えられるようになったのは足利義教、義政の頃だと書かれている。茶入はもともと小壷と云った。
現代人は壷を単なる保存ための容器として考える。しかし古代以来、瓶・甕・壷は本来呪術に使われてきたものである。壷には霊、魂をこめる働きがあると信じられてきた。古くは死者を葬った甕棺・今日でも骨壷など、壷は死と密接な関係がある。
一方、壷は食物を蓄えるなど他の用途にも使われる。その場合は、底に小さな穴をあけたり、白布で巻いたりと全く別の物に転化させる術が施されたことも知られている。
「令和」の出典でブームとなっている万葉集にもその源流を知る儀式の歌が数種残っている。その一つが天平5年(733)に遣唐使に旅立つむすこの無事をねがって詠った歌である。
秋萩を 妻問ふ鹿こそ 独子に 子持てりといへ 鹿児じもの 我が独子の 草枕 旅にし行けば 竹珠を しじに貫き垂り 斎瓮に 木綿取り垂でて 斎ひつつ わが思ふ吾子真幸くありこそ
竹珠(たけだま)、木綿(ゆふ)、斎瓮(いはひべ)がキーワードだ。斎瓮は甕のことである。詳細は略するが斎瓮だけでは死の器となる。無事を願う祈りの器に転化するために竹珠、木綿を使ったのだろう。
茶を保存する容器、茶壷の場合は口に覆われた錦だ。壷のままでは、聖なる茶室に持ち込むことは出来ない。そこで錦を被せることにより前述したように、死の器から聖なる器へと転化させたと考えられる。小壷と云われた茶入も同様だ。裸のままでは使えない。茶入もまた仕覆の中に納めることにより、茶室で使うことを可能にした。
聖なる器となった茶壷に初めて取れたお茶を詰めることは、まさに神に捧げる行為とみることが出来きる。そして、口切りが行われるのは11月、旧暦の10月にあたる。旧暦10月は亥の月、全ての陽の気が尽き果てた、極陰の月をあらわしている。また、母であるとともに暗所を暗示し、すでに種子の内部に生命が内蔵された状態をさす。この亥の月に茶壷の口を切るのだ。これはまさしく陰陽交合の呪術にほかならない。命の誕生を意味している。口を切ることにより、はじめてお茶に命が宿る。それは生きる魂なのだ。
裂には特別な思いがあった。元来裂は直接の鑑賞の対象でもなければ容器を保護するためでもなかった。それはまさに新たな価値への転換、転生的な役割を持ったものであったのだ。
茶道が確立されるようになり本来の意味が薄れ貴重な裂ということもあり、鑑賞の対象となっていった。小堀遠州が裂の端切れを集めて一冊の帳にした「文龍」も伝来している。その後、松平不昧の「古今名物類聚」の名物切の部が成立して、独立して賞翫されるようになったのだろう。