御岳山房〜壷中日月長〜

御岳山房〜壷中日月長〜

茶の湯を中心に森羅万象を語ります。

昨日は97回目の「茶の湯で哲学する」を開催。今回のテーマは令和を記念して「万葉と茶の湯」。

 

万葉集の時代はまだ日本に喫茶の風習は無かったとされる。815年、『日本後記』に嵯峨天皇に僧永忠が茶を煎じて奉ったと記述されているのが、喫茶に関する最初の記事といわれているからだ。しかし、東大寺要録の行基の茶の木の記述など、万葉の時代にも伝承で生きている茶も多い。

 

さて、茶の湯の世界では今日でも正月飾りとして、柳を輪に結んで、結び柳をする慣習が残っている。その由来は唐時代の詩人張喬の「離別河邊綰柳條(河辺に離れて柳条をわかぬ)千山萬水玉人遙(千山万水玉人遥かなり)」の漢詩からだ。旅に出る友人に柳の枝と枝を結んで輪にして贈り、無事再び巡り会えるように願った故事から、利休が送別の花として鶴の一声と呼ばれる花入に柳を結んで生けたのが最初と伝えらている。

 

しかし、枝を結んで無事を願う風習は既に万葉の時代からあった。万葉集には654年天皇への謀反の容疑で処刑された有間皇子が護送中の磐代の地で詠んだ歌がある。

 

「磐代の浜松が枝を 引き結び、真幸くあらば、また帰り見む(運良く無事に磐代の浜に帰ることができたら、この結ばれた枝を再び見ることが出来るだろう)」

 

磐代とは今の和歌山県日高郡みなべ町の地である。再びこの地を通るもののその願いも虚しく19歳の命を散らす。枝を結ぶ風習は、張喬の詩を持ち出すまでもなく日本人の古き心の顕れなのだ。

 

震災の年から「茶の湯とは何だ?」と問いかけながら毎月休まず開催している「茶の湯で哲学する」も8月で100回を迎えることになる。98回目の「茶の湯で哲学する」テーマは「海を渡った茶の湯」と題して、6月25日(火)19時〜東京日本橋・茶友倶楽部空門にて開催する。誰でも参加出来るので、ご興味のある方はお問い合わせを。

 

http://www.koomon.com/j_salon.html

 

  



茶席に入るとまず床の間の掛軸に対して一礼する。


   この作法は侘び茶の祖と伝えられている村田珠光が一休禅師に参禅して、印可を受け,その証として圓悟克勤禅師の墨蹟を授けられ、それを掛けて茶の湯をしたという伝承を拠り所にしているところが大きい。


   我々が掛軸に向かって一礼をするのも、この場にはいらっしゃらないけれども、その掛軸を通してその言葉を書いた人に教えを受けたいという謙虚な気持ちから、頭を下げる。


   村田珠光も直接ではないにしろ、圓悟から掛軸を通して禅の教えを受けてお茶をしたということだ。その伝承から茶禅一味の思想も生まれる。


   言葉の意味、芸術性も大切だが、それ以上に誰が書いたのかが肝要である。大徳寺の僧の書を掛けるのも、流儀の歴代宗匠の書を掛けるのも、それを書いた人の徳を賞翫するからに他ならない。茶会はたんなる美術鑑賞会や作品の発表会ではないのだ。


   それ故、床の間には著名な書家だから、美しい字だからとか、有名人だからといって掛けるものではない。ましてや自分の書を掛けるのは、もっての他ということになる。


   さて、近衛家熙のお抱えの医者侍医であった山科道安が、享保9年から同20年までの間、家熙の言行を記述した「槐記」には


「総じて表具の取り合わせと云うことは、第一に一軸の筆者を吟味して、この人はどれほどの服を着るべき人ぞと工夫して、その人に相応の切を遣うこと、これ第一のことなり。今の人、沢庵、江月、利休、宗旦などに、古金襴を遣うことは何事ぞや。不相応は勿論、いと文盲なることなり。古き表具に、左様なるは一軸もなし」


    天皇や公家、南宋の高僧と比べると、沢庵、江月、利休、宗旦なんかは格が違うというわけだ。必然的にそこに使われる裂も異なってくる。掛物はたんなる道具ではなく、人そのものを顕すからだ。


    仏教伝来と共に中国から入ってきたと伝えられる表装は本紙を損なわないための保護のためであった。茶の湯が盛んになるにつれて、表装の意味合いも変化してくる。装飾性を帯び、さらに掛軸に尊厳を与えた。


    床の間の前でまず一礼してから始まる茶の湯。一礼するに相応しい人物でないと禍根を残すことになる。


    『槐記』には次のようなエピソードが記されている。


「春屋は遠州がもてはやしから、沢庵、江月と共に皆が床の間に掛けるようになった」と。春屋和尚は遠州の参禅の師であるだけでなく名だたる茶人たちとの交流もあった。現在、茶人たちが好んで大徳寺系の僧侶の掛軸をかけるようになったのは遠州からという事になる。


    しかし、金森宗和は春屋が大嫌いであった。ある時、茶会に行ったら床の間に「例の坊主めが床にいた」とバカにしていた様子が述べられている。”例の坊主め”とはなかなか辛辣な物言いである。


   古来から服は特別なもので、人も身分によって服装の規定があった。服装を見るだけでその人の身分がわかった。現代でも制服があるから、あの人は警察官だ、消防士だとわかる。制服がなくても襟元につけているバッジによって、赤紫色のモールに金色の菊花模様があるから、あの人は国会議員だというように、着ているもの、身につけているものによって、その人の身分を証明する。


    8世紀に大宝律令が制定されるなど律令制が国の根幹に据えられると、民衆に到るまで服装というのは政府から規制、統制されていく。


    織物をはじめとする裂は、律令の時代には貨幣と同様に扱われたため、現代の造幣局と同じように大蔵省に錦・綾などを織り、また、染め物をつかさどった織部司が置かれた。宮内省には内染司、中務省には縫殿寮など主要な役所にそれぞれ役割を担わせた。


    まさに、天皇と一番近いところにあり、織物、裂は特別なものであったことがわかる。


    茶入にも裂が添えられる。茶入も当然その格によって使用する裂も吟味されなければならない。


    『松屋日記』 には裂の格を伝えるエピソードとして「備前肩衝に名を布袋と利休のつけたるは、袋白地の小紋の金欄に大たるを、扨々(さてさて)過分過ぎたる袋とて布袋肩衝とつけし也」とある。


    利休は侘びた備前の茶入に、あえて華やかな金襴の袋を取り合わせた。備前には過ぎた袋ということで布袋となづけたのだ。


    南方録には茶入に袋が添えられるようになったのは足利義教、義政の頃だと書かれている。茶入はもともと小壷と云った。


    現代人は壷を単なる保存ための容器として考える。しかし古代以来、瓶・甕・壷は本来呪術に使われてきたものである。壷には霊、魂をこめる働きがあると信じられてきた。古くは死者を葬った甕棺・今日でも骨壷など、壷は死と密接な関係がある。

 

    一方、壷は食物を蓄えるなど他の用途にも使われる。その場合は、底に小さな穴をあけたり、白布で巻いたりと全く別の物に転化させる術が施されたことも知られている。


   「令和」の出典でブームとなっている万葉集にもその源流を知る儀式の歌が数種残っている。その一つが天平5年(733)に遣唐使に旅立つむすこの無事をねがって詠った歌である。


秋萩を 妻問ふ鹿こそ 独子に 子持てりといへ 鹿児じもの 我が独子の 草枕 旅にし行けば 竹珠を しじに貫き垂り 斎瓮に 木綿取り垂でて 斎ひつつ わが思ふ吾子真幸くありこそ


竹珠(たけだま)、木綿(ゆふ)、斎瓮(いはひべ)がキーワードだ。斎瓮は甕のことである。詳細は略するが斎瓮だけでは死の器となる。無事を願う祈りの器に転化するために竹珠、木綿を使ったのだろう。


   茶を保存する容器、茶壷の場合は口に覆われた錦だ。壷のままでは、聖なる茶室に持ち込むことは出来ない。そこで錦を被せることにより前述したように、死の器から聖なる器へと転化させたと考えられる。小壷と云われた茶入も同様だ。裸のままでは使えない。茶入もまた仕覆の中に納めることにより、茶室で使うことを可能にした。


 聖なる器となった茶壷に初めて取れたお茶を詰めることは、まさに神に捧げる行為とみることが出来きる。そして、口切りが行われるのは11月、旧暦の10月にあたる。旧暦10月は亥の月、全ての陽の気が尽き果てた、極陰の月をあらわしている。また、母であるとともに暗所を暗示し、すでに種子の内部に生命が内蔵された状態をさす。この亥の月に茶壷の口を切るのだ。これはまさしく陰陽交合の呪術にほかならない。命の誕生を意味している。口を切ることにより、はじめてお茶に命が宿る。それは生きる魂なのだ。


   裂には特別な思いがあった。元来裂は直接の鑑賞の対象でもなければ容器を保護するためでもなかった。それはまさに新たな価値への転換、転生的な役割を持ったものであったのだ。


 茶道が確立されるようになり本来の意味が薄れ貴重な裂ということもあり、鑑賞の対象となっていった。小堀遠州が裂の端切れを集めて一冊の帳にした「文龍」も伝来している。その後、松平不昧の「古今名物類聚」の名物切の部が成立して、独立して賞翫されるようになったのだろう。


連歌の話は一休み。

 

昨日、皇位継承に関して下記のニュースが報じられた。

 

安倍晋三首相は6日の参院予算委員会で、皇位継承に伴い新天皇に引き継がれる「三種の神器」の一部である剣と璽(勾玉)について「5月1日午前0時の皇位継承と同時に継承される。政府が一時、預かることはない」と述べた。(共同通信)

 

 茶の湯の世界でも三種の神器に匹敵する道具がある。

 

 名物である。

 

 室町足利将軍家が蒐集所蔵していた茶道具を一般に大名物と云った。茶人たち身分に関わらず現代に至るまで名物茶器に執着した。

 

 茶の湯が流行する16世紀~17世紀は、中世から近世の過渡期で戦国時代と称されるように世の中は混沌とした時代でもあった。

 

 天皇を中心とするヒエラルキーは日本にとって絶対的なものである。しかし時代の過渡期、境界はその中で身分的に虐げられていた人たちが、這い上がることが出来るチャンスの時代でもあったのだ。

 

 財力も持とうとも、武士として国を支配しようとも、その出自は如何ともし難い宿命のようなものであった。権力や財力で身分を得たとしても、それに相応しい人物であるかは誰も証明出来ない。

 

 その証として利用されたのが「名物」と考えると、この時代の人たちが茶の湯に執心した理由の一つが理解できるのではないかと思う。

 

 足利将軍家の力が衰えてくると、茶道具の数々が市井へと流出する。それを使って町衆たちは茶を点て始める。これを持つ者こそが、虐げられてきた精神的差別からの脱却を意味した。将軍家所持名品で茶を喫することが出来る身分となったのだ。天皇家でさえ、その継承の証が求められる。

 

 それが三種の神器なら、人としての証が名物だったのだ。

 

藁屋に名馬つなぎたるがよし

 

 茶祖と伝えれれる村田珠光の言葉だ。

 

 藁屋が侘びの象徴で、名馬は名物のことだ。わびたるものと名物との対比の中に美を見出すところに珠光のわび茶の神髄がみられるということで解釈されることが多いようだ。

 

 一方、身分が低くて粗末であろうとも、名物一つ持っていないようでは、茶人とはいえないという厳しい言葉であると捉えることも出来る。

 

 それを裏付けるように小堀遠州の茶の湯伝書には

 

むかし茶湯に上中下の三段をわけたり

上は其身すぐれ、或其の身に財あれば、名物所持ある故上とす。

財あれども名物の道具不足なるか、あるいは道具あれどもその身まづしければ、是を中とす。

下は財無、道具もまどしき故に下とす。これを侘といふ

 

身分も高く、財力もあり、名物を持っている茶人を"上”。財力があっても名物の所持が少ない、名物を持っていても身分低い者は”中”、財も無く、名物も持てない茶人を”下”、つまり”侘び”と云っていた。

 

 また

 

よき壷所持の人は人に御茶可申といひ、よき壷不持の侘は御茶可申とは云わざるなり

 

 昔は、名物を持たなければ茶とは認められなかったらしい。

 

 今で言うと1流、2流、3流のランク付け。身分も高く、お金持ちで、そして名物を持っている人が1流の茶人。お金は持っていても名物道具を持っていない人、道具を持っていても身分が低い人は2流茶人。そして、お金もなく、名物道具も持っていない人は3流茶人。そして3流茶人を侘茶人というわけだ。

 まあ、名物一つも持っていないようじゃ、一端の茶人と名乗っちゃいけねえなあと言うことなのだ。

 

 名物所持ということが、この時代の茶を考える上で重要なキーワードということがわかる。

 

 織田信長は、「名物狩り」により名物茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じ、茶会を開く許可や茶器を与えることを恩賞とするようなる。茶の湯を利用した信長の政治を「御茶湯御政道」とも云う。しかし、名物を集めた信長とて、町衆たちから全ては取り上げなかった。人としての尊厳を守ったのだ。それが政治家としての信長の凄いところだ。

 

 特に秀吉が信長から茶の湯を許された時の喜びようは尋常ではなかった。秀吉には出自のコンプレックスが常につきまとっていたからであろう。これで一廉の武士として、人として認められたのだから。

 

 江戸時代になると身分の動きがほとんど無くなる。もう、秀吉のような出世はありえない。信長さえ、町人に残していた名物茶器も家康の時代になるとほとんどが武家のものになった。

 

 しかし、名物に人としての証がなくなったかというとそうではない。

 

 大名が家督を相続するさいに、将軍家から名刀や茶器が与えられるようになる。つまり正当な継承者への証として名物や刀剣が下賜されたのだ。しかし、それは一代限りの証明書である。当代が亡くなるとそれをお返ししなくてはならない。代が代わる度に名物茶器の下賜·献上が繰り返された。

 

 このような時代背景があって「名器は一国一城に値す」という話は、江戸時代に作られたと言えよう。

 

 そして、江戸時代には名物茶道具の所持は大名家の交際ステイタスの一つとなるのだ。それが武家茶道の興隆につながる。

 

連歌とはどのような芸能なのか、小堀遠州が連歌をした時の自筆の記録が残っている。それを読み解きながらみていきたい。

 

登場人物は以下の通りだ。

 

小堀遠州(こぼりえんしゅう)

近江小室藩主で遠州流茶道の流祖。徳川将軍家の茶道指南役。駿府城、名古屋城、大坂城天守閣はじめとする名城を作事する。長年伏見奉行を務める。

松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)

真言宗の僧侶、文化人。書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名である。近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。

淀屋个庵(よどやこあん)

大坂の豪商。風流を解し,茶事を嗜み,小堀遠州,松花堂昭乗と親交があり,連歌をよくし,戯画に長じて人物花鳥雑画を描いたという。

佐川田昌俊(さがわだまさとし)

山城淀藩の家老で永井氏の家臣。智勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、歌道にも優れていた。

橘屋宗玄(たちばなやそうげん)

町人で小堀遠州の門人。遠州の茶室の留守を預ったと言われている。明暦の大火に狩野探幽が紛失した茶入を、宗玄が拾って返したという逸話も残っている。

 

落葉して風乃色ミる山路哉 小堀遠州

ひらけはさむき霜の松の戸 松花堂昭乗

有明は時雨し雲にもれ出て 淀屋个庵

泊わかるる浪乃うら舟 佐川田昌俊

遠さかる春の海辺の天津雁 橘屋宗玄

永日暮るすゑ乃真砂地 小堀遠州

帰るさの道は霞に隔りて 松花堂昭乗

いつくの里にはこふ柴人 淀屋个庵

 

最初の句を発句と云う。通常連歌会の主賓が詠むことになっている。ここでは当然大名である遠州である。

 

落葉して風乃色ミる山路哉(遠州)発句 冬

 

遠州の発句は晩秋~初冬の山路の景色を詠んだ。発句のルールは季語を入れること。それも当季だ。そして発句はその場に近い風物から入るものとされている。

 

赤い紅葉だったかもしれない。黄色い葉かも、茶色にクスンだ色かもしれない。そこに風が吹き落葉の景色を変える。

 

そしてそれを「山路哉」と結んだ。言い切り型の切れ字「哉(かな)」「や」「けり」などを使うのもお約束である。

 

ひらけはさむき霜の松の戸(松花堂)脇句 冬

 

次の句は脇句と云う。座の亭主が詠む。松花堂だ。

 

発句に付けて詠み、体言止がルールである。「松の戸」とは、松で出来た粗末な戸のこと。この句から山奥の粗末な一軒家が想像出来る。そこに霜が降りて白くなっている。脇句はルール上は“同季”でなければならない。それで松花堂は山奥の粗末な一軒家に冬の訪れを象徴する冬の客、霜を詠んだのだ。

 

落葉して風乃色ミる山路哉 ひらけはさむき霜の松の戸

 

有明は時雨し雲にもれ出て个庵)第三句 晩秋

 

三句転回をしなければならない。そして「て留め」がルールだ。前句には付けるが、そのもうひとつ前の句からは離れる。このもうひとつ前の句からの離れが「打越」(うちこし)である。どうするか。淀屋个庵は前句を受けつつ、「有明は時雨し雲にもれ出て」とやった。

 冬の訪れを告げる発句と脇句の意向を、ふたたび有明の月、夜が明けかけても、空に残っている月。晩秋に戻したのである。これを「季移り」という。さらに目線を地面から空へと向けさせた。

 

有明は時雨し雲にもれ出て ひらけはさむき霜の松の戸

 

泊わかるる浪乃うら舟昌俊)第四句 雑歌 

 

ここで一巡である。たった三句の付合であるが、その技巧たるやものすごい。

次の第四句は「軽み」と「あしらい」を要求される。これもルールである。では、どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの芸技がいる。この句だけ見ると「泊わかるる浪乃うら舟」季節ははっきりしたない。異った季の句の間には無季(雑)の句を挟むのが普通。つまり次の人のための前ぶりをしているのである。また、佐川田昌俊は、前句を受けての、僅かに漏れる月の光の先に映っている「泊わかるる浪乃うら舟」を表現することにより、場所も山から海へその景色を移し、これから出航するであろう船着場に漂う浦船に光を当てた。

 

有明は時雨し雲にもれ出て 泊わかるる浪乃うら舟

 

遠さかる春の海辺の天津雁(宗玄)=第五句 春

 

五句目は季節が一気に春へと移る。そこでまず出航しようとしていた浦船と春になって渡っていこうとする雁を掛けて海辺から遠ざかる。雁は秋に来て春に渡っていく二つの季節を表している。秋から一気に春にとんでいるのも、雁を表現することでその間の冬の季節を表しているのだと思う。

 

遠さかる春の海辺の天津雁 泊わかるる浪乃うら舟

 

永日暮るすゑ乃真砂地(遠州)=第六句 春

 

永き日」、日中が長く感じられる春の日ながを詠んでいるのだろう。海辺から離れた真砂地に座って、だんだん暮れてゆく中、前の句を受けて、夕暮れの空に消える雁の姿を見ながら、物思いに思いふけっている様子である。ここで初めて人が登場する。

 

遠さかる春の海辺の天津雁 永日暮るすゑ乃真砂地

 

帰るさの道は霞に隔りて(松花堂)=第七句 春

 

ところがこのまま雁と共に遠ざかってしまってはダメなのだ。そこで話が終わってしまう。自分の元に引き戻さないといけない。霞がかかって帰り道がわからない。ちょっと意地悪な句であるが、実はこの句は八句目に生きてくる。

 

帰るさの道は霞に隔りて 永日暮るすゑ乃真砂地

 

いつくの里にはこふ柴人(个庵)=第八句

 

そして霞の向こうには、「いつくの里にはこふ柴人」の姿が。柴と云うのは山野にはえる小さい雑木、柴人というのは山里に住む芝を狩る人のこと。最後に見事に山里に戻して結んでみせた。

 

帰るさの道は霞に隔りて いつくの里にはこふ柴人

 

連歌に変化をもたらすため、同じイメージや発想の繰り返しをさける去嫌(さりきらい)

同じ発想、イメージ、言葉が繰り返される輪廻(りんね)を一語も使わず、ルールが徹底されている。

 

これらの連歌(和歌)の形式やルールは今なお茶道の中に生きている。連歌はまだまだ続くのであるが今日はここまで。

 

〈続く〉

 

やまとうたは 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける

 

世の中にある人 こと わざしげきものなれば 心に思ふことを 見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり
花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり

 

 古今和歌集の序には和歌(やまとうた)の秘めた力を述べている。その「和歌」から派生したのが連歌である。実はこの連歌が茶の湯に大きな影響を与える。

 

 和歌は一人で詠うが、連歌は複数人で5・7・5の発句と7・7の脇句以下,長短句を交互に連ねていく形式の歌である。

 

 連歌と言えば私と同じ名の柴屋軒宗長が有名だ。この宗長が茶道の流行に果たした役割は大きい。

 

 宗長は文安五年(1448)静岡県島田市の鍛冶職の家に生まれた。今川氏に仕え、芭蕉の「笈の小文」の中で「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その道を貫くものは一つなり」と言われた飯尾宗祇に出逢い連歌の道へ誘われた。

 

 さらに上京して一休禅師に参禅した。その縁で私財をなげうって再建したのたが金毛閣の三門だ。その後、利休が改修し、自身の木造を掲揚し切腹の一因となった話はあまりにも有名である。宗長は、一休を中心とした集まった大徳寺サロンとも云うべき芸能者たちの集団の一員であり、リーダー的存在として、御家流香道の祖三条西実隆や俳諧の祖山崎宗鑑、侘び茶の祖といわれる村田珠光の養子宗珠、能楽の金春禅竹、画家の曽我蛇足など、今でいうと流行の最先端をゆくアーティストたちと親しく交わった。

 

 また、諸国を自由に往来できることから、公家や幕府の上級武士、地方の大名や有力国人とも親交を持ち、情報収集、情報提供を行い、マスメディア的パフォーマンスもすれば、政治的な外交官、そしてCIA的活躍もする。たんなる情報屋ではない。宗長は武田と今川の間に入って講話を結ばせるなど、その外交手腕もすぐれていた。宗長をはじめとする連歌師たちは、このように当時の情報ビジネスの最先端を走り、その情報提供料を自分の創作活動にあてていた。

 

 茶の湯は連歌よりも新しい芸能だ。最初から茶人が存在したわけではない。

 

 世の中に茶の湯が流行し始めるのは、室町将軍家が、3代義満から8代義政の時代にかけて収集した中国から輸入した美術品(東山御物・大名物)を飾って抹茶を飲むことが行われるようになってからだ。当時は現代のように抹茶を人前で点てることはしなかった。将軍家の力が衰えていくと、美術品が流失し始める。「上の好むところまた下も好む」はいずこの時代も同じである。流失した道具を使って実際に人前で茶を点て始めたのが町衆たちの茶の湯始まりと思われる。

 

 当然、情報屋としては、新しいモードに敏感でなくてはいけない。宗長の日記にも茶の湯を楽しんだ様子がかかれている。宗長は連歌師であるだけでなく茶の湯者でもあった。茶の湯とはどんなものなんだと聞かれたら、自分で実際やってみせたのだろう。初期の頃の茶の湯者の多くが連歌師出身であったことからもそれを物語る。

 

 また、和歌と違って、身分の低い者でも参加できたのも連歌の特徴だ。それも茶の湯と同じである。そして身分の低い人たちは連歌を通して教養を身につけた。また、連歌の自由自在の発想は、後の茶の湯の精神とも通ずるところで、この連歌会の形式が茶の湯へとつながっていったのだ。

 

〈続く〉

 

 

 

   和歌の力は絶大だ。言霊を通して神と交わり、人と交わる。公家が歌を詠むのは遊んでいるわけではない。国や人を動かす原動力であった。

 

 

   何の力も持たない公家が政治の中心にいられたのは和歌を詠めたからに他ならない。武家である平氏が政権の中枢に上りつめたのも、軍事力や日宋貿易で蓄えた経済力だけではない。和歌を詠む能力、神との交わりができる力を身につけたからだ。

 

   公家たちの日常は野に遊んだり、歌を詠んだり、蹴鞠をしたり、現代人の目からみると、遊んで暮らしてるように見える。しかし、それこそが神さまと交流し世の平和をもたらす重要な役割なのだ。

 

    中世までは神が生きていた時代であった。今とはまったく価値観が違うのだ。現代の常識にあてはめて考えるとなかなか理解出来ない。

 

   和歌は天皇家でも公家でも必須の教養とされてきた。武士たちもまた平家が滅んだ後も、源頼朝はその重要性を認識し、わざわざ西行を呼び寄せて和歌の講義を受けているほどだ。

 

   その後、武家も歌は必須となる。戦国時代の武将で茶人である細川幽斎は「武士の知らぬは恥ぞ馬茶湯はぢより外に恥はなきも」と詠った。

 

    幽斎は古今和歌集の秘伝・古今伝授の継承者でもあった。関ヶ原の戦いのおり、居城田辺城が石田三成の軍勢に包囲された時、古今伝授の断絶を恐れた後陽成天皇の勅命により、城の包囲が解かれたというエピソードは、和歌の力が国を治める根源を担っていることを天皇自身が自覚していたからに違いない。

 

   日本は古来から国を治める力は、軍事力だけでなくソフトパワーも伴っていなくてはならなかったのだ。

 

   それ故に全ての芸能に直接的、間接的に和歌が強く影響した。

 

     能を大成した世阿弥も

「まず、この道至らんと思はん者は非道を行すべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もっともこれを用ふべし」 

と述べている。

 

    能を極めようと思ったなら他の芸事には目も触れず能だけに邁進すべきである。しかし、和歌だけは例外である。稽古に精進すべきだと。

 

   天下泰平・護国豊穣を目的として始まった能も、鎮魂の意も含めて和歌の力を必要とした。

 

   茶道もまた和歌を源流としている。

 

 

(続く)

 

 

 アート、美術、芸術は洋の東西を問わず、神との関係を抜きには語ることが出来きない。ヨーロッパの教会や美術館に足を運んでも、18世紀までの美術品、建築物というのは、宗教的知識、とくにキリスト教の知識なくしては、なかなか理解することが出来ない。それは、日本においても芸能と呼ばれる大和絵、雅楽、和歌、茶道、華道、能、狂言、蹴鞠等々も同じである。

 

 宗教の影響を強く受けていたヨーロッパのアートもフランス革命によって激変する。1789年にフランスで始まった市民革命(ブルジョア革命)によって、ブルボン王朝が崩壊し、第一共和政が樹立される。それまでの特権階級であった王侯貴族達が没落していき、主役が市民となる。また当時の聖職者たちは特権階級に属していたので、キリスト教は徹底的に弾圧され、追放、破壊が繰り返された。

 

 そこで何が起こったか?アートが神の手から離れていったのだ。政治の主役が神や王侯貴族たちから、市民となった。そうすると、これまでの神話や宗教に根ざしたテーマで描く必要がなくなった。自分の描きたいものを描くようになる。そして、新たなアートが出現する。それがモダンアートであり、現代アートに引き継がれる。

(参考文献:椹木野衣著「反アート入門」)

 

 日本でも同じことが起こる。明治維新である。明治維新の担い手たちは、武家文化、仏教文化を否定し文化破壊を行った。大名がパトロンであった能や茶道などが否定された。それは経済的な面だけでなく、思想的にも大きな影響を与えた。江戸時代まで仏教、儒教の教えの影響を受けていた茶道、武士が生きる上での規範としていた茶道が寸断されていくことになったのだ。

 

つまり、明治維新以降、本来の茶道ではなく。思想·哲学、点前、礼法、工芸、建築、花、料理等々とそれぞれが独立した形で歩みはじめる。

 

 神のタガ、宗教のタガが外れたのだ。

 

 しかし、茶道はそれ以前に、例外的に神のタガ、宗教的タガが外れた時期があった。利休の時代だ。日本においてはアートの大衆化は、茶の湯を以て実現されたと言っても過言ではない。250年以上も前に大衆が主役として自分たちのためのアートを実践した。そのアートの中身もまた現代的だ。

 

 利休をはじめ彼に触発された茶人たちは、ただ竹を切って花入として使う、茶壷を躙口の転がしておく、故意に茶碗を割り継ぎ接ぎにする、雨の降った日に床の間に水だけを打つ等々。それはコンテンポラリーアート、サウンドアート、コンセプチュアル·アート、リレーショナルアート、インテリアアートなど、まさに現代アートとして評価されていることが、400年以上も前に茶道シーンで既に行われていた。

 

 欧米アートが宗教のタガがはずれ、モダンアートから現代アートへの流れはおよそ200年を要した。しかし、利休が天下一の宗匠として活躍した時期は6年。たった6年で利休の茶は200年のアートシーンを駆け抜けたと云っても過言ではない。利休の異質性はその後の江戸時代の茶の湯にも影響を残す。

 

 しかし、中世最後の大芸術家でありながら、利休にはもっとも中世的なるもの見えない。「わびさび」が日本人の美意識、思想だと語る人は大勢いる。「わびさび」という言葉が今なお学者たちの間で議論されているのもそれを取り違えているからである。

 

 利休の茶には歌心、つまり神の心が見えないのだ。

 

 事実、歴代の茶人の中でも利休は和歌を詠まなかったと言っていいほど、和歌が残っていない。利休作の和歌が6首ほど伝えられているが、いずれにしてもその評価は低いと言わざるを得ない。弟子の織部さえ、利休はあらゆることに天才だったが、歌だけはへたくそだったと残しているぐらいだ。日本の芸能、美術だけでなく、歴代の茶人の中でも異質な存在なのである。

 

 和歌は神との関わり抜きには語れない。和歌の心がわからないと神の心もわからない。神、宗教から離れたところに侘び茶が生まれた。宗教的タガがはずれたところに佗び茶があった。

 

 宗教には様々なタブーが存在する。タブーを破ってきたのが利休の茶であり、利休の美でもあるわけだ。

 

 死の穢れ、血の穢れの色である黒赤を使った茶碗を作る。穢の象徴であった竹で作った道具を持ち込む、畳の上に直に道具を置くなど、それまでの日本人が忌み嫌っていたタブーを茶の湯のスタンダードにしてしまった。

 

 それを可能にしたのが秀吉の存在だ。秀吉は利休に対してよく道化として描かれることが多い。それも大きな間違い。利休の最大の理解者でありパトロンであった秀吉が利休の美を支えたことになる。秀吉が認めなければ、利休は存在しなかった。

 

 (次回に続く)

 

        バチカン諸宗教対話評議会での茶会

 

 現在カトリック信者数が44万人(平成29年度統計)、江戸時代初期には65万人の信者がいたと伝えられるキリスト教。

 

  それ故、キリシタン茶人の存在、茶道具に取り入れられた意匠、茶道とミサの所作の類似性から、茶道はキリスト教の影響を受けているという説がある。

 

  しかし、キリスト教伝来の頃にはすでに茶の湯は流行の兆しを見せていた。キリスト教布教の一つの指針が、日本の文化、思想を尊重し、同化をはかることにあった。その一つが茶の湯の利用であり、キリストの教えを広める一助としたのだ。

 

  宣教師は布教のため茶の湯を利用したのであり、そういう意味では茶の湯とキリスト教は関係があると云える。

 

 又ミサの所作を点前に取り入れたという説等は、世界中の聖なる儀式の類似性を見れば当然のことであり、日本にも清めの儀式は神代の時代から存在するのだ。

 

   利休の創意によって始められたと伝えられる濃茶の回し飲みも、利休がミサにおけるカリスの所作に触発されて取り入れたとの説もある。”回し飲み”は酒を代表するように古来から日本人の慣習にあったものである。

 

   中世には一揆に参加する民衆たちが団結をはかるため起請文を灰にして神水に溶かし回し飲んだという”一味神水”と云う儀式もあらわれた。 

 

 初期の頃に伝来した高麗茶碗が大ぶりなものが多いことからみても、”人と人”、”人と神”、”人と仏”を結びつける神人共食の考えが、茶の湯に取り入れられるのは必然であったと思われる。

 

 私が一番興味を持ったのは高山右近をはじめとするキリシタン茶人の存在であった。彼は信仰のため大名の座も捨て去り、イエスに一生を捧げた。

 

   「喫茶に禅道を主とするは、紫野の一休禅師より事起れり」で始まる『禅茶録』。茶道が禅道を主とするならば、キリシタン茶人は最初から自己矛盾の中で生きていたわけだ。

 

 しかし、右近は大名を捨てても、キリスト教も茶道も捨てなかった。

 

   「茶禅一味」という思想は茶道の根幹を成すものであるが、その思想が定着するのは江戸時代に入ってからである。禅宗は幕府の保護のもと中国文化の伝達者として、公武の媒介者として様々な歴史シーンで登場した。

 

  小堀遠州が春屋禅師の書を好んで掛けたことから、沢庵禅師や江月禅師など大徳寺の僧侶の書を床の間を飾ることが流行する。『南方録』の「掛物ほど第一の道具はなし。客、亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也。墨蹟を第一とする」と云う考えは、現代の茶道にも大きな影響を与えた。

 

 キリシタン茶人の存在が江戸時代以前の茶の湯の性格を知る一つの手がかりとなる。宣教師たちが激しく攻撃した既存の仏教。茶の湯の思想の根源が禅であったならば、布教のために茶会を利用しようとは思うはずがない。彼らの眼にうつった茶の湯はおもてなしの儀式であり、そこに特定宗教の影響を感じることはなかったのだろ。

 

 宗湛日記を読むと、高山右近の茶会の様子を垣間見ることが出来る。

「二畳敷、床無。道籠に肩衝とせと茶碗と置双て、脇に柄杓立て懸け、つり棚には引切一つ、壁の方に。せと水指、めんつう、風炉なり。茶の後に、つり棚に肩衝を上て置、亭仰せられるには、遠国なれば、また会を仕るべく事難有候ほどに、上げて今ちと御目懸るべきと候なりと雑談なり」とある。

 

 右近はこの頃、キリシタン禁教の中客分となっていた前田利家に従い名護屋に従軍していた。茶室は床無。掛軸は掛けなかった。

   安政7年3月3日、午前9時過ぎ、季節はずれの雪が降り積もった江戸城・桜田門外で井伊直弼が暗殺された。


   直弼の政治家としての評価は分かれるところだ。安政の大獄のイメージがあまりに強く、厳しい評価も多い。


   しかし、直弼の真の姿は平和主義者であった。それは若き頃から死の直前まで綴られた茶書を読めばわかる。彼は、権力ではなく文化力で国を治めようとしていたのだ。 それは若い頃に茶の湯を志してから暗殺されるまで変わらぬ信念であった。


「茶事は己が所業を助る道なるか故に、士農工商ともにまなびて益 有る事」。直弼の『茶道壁書』の第1条に記された一文である。 その奥書には、安政5年と書かれている。安政の大獄の始まった年、 直弼が暗殺される2年前だ。その心は、直弼が部屋住みの頃に書かれ たと思われる『茶道と政道』にあるようだ。


「上は己が身にたれりとする故に下をあわれみ、下は己が身にたれ りとする故に上をうやまひたすく、富者たれりとする故にほどこし、 貧者たれりとする故にあながちもとめず、是、知足の行はるる所」 と。そして「国家あまねく喫茶の法行はるるときは、ここにしるす がごとく、上下ともに己が身を守り楽しんで、憂るものなく、仇す るものもなからん」。


   己の不遇を嘆くことなく、足るを知ることこそ、平穏な日々を 送る術であった。直弼にとって茶の湯は封建社会を生きるための智 恵の源であり、「士農工商ともにまなびて益有る事」も、為政者と して万民の不平不満を、政策で統制、弾圧するよりも、茶の湯の思 想が広く行き渡っていればと云う懺悔と願いが込められていたのか もしれない。


    一方、「喫茶は独道の法にして、政道などに預るべきの器にあらず」 とも述べている。しかし、その心は「上に喫茶嗜む時は其国に幸し、 下に喫茶を嗜む時は、一人は一人、二人は二人など、政治の無事、 助となるべし」とある。つまり、茶の湯は直接政治に関わるべきものではないが、国中上下とも茶の道に入ればその 国は平和が訪れるというのである。


   動乱を 予兆させる世の中、幕藩体制を維持するための平和的手段が茶の湯 の思想であったのだろう。


   直弼はその後の茶道の行く末を見据えてか、忠告も忘れていない。 茶道は「快楽する道にて、行やすき道にはあれども、法中に邪道を 説く者ありて、よく人を導く故にその説を面白しと、是に汲みする 類も多く成行事、是は喫茶の不行ざるよりも、又、格別に嘆かわし きの至極なれ」とも。


    茶の湯を社会にどのように生かすかは、使う人の理念に負うところが多い。生かすも殺すも使う人によるのだ。志半ばで刃に倒れた直弼の志を継ぐ政治家が生まれることを願う。


 

燕岳山頂にて一服(飛騨山脈(北アルプス)にある標高2,763mの山)

 

 御岳山房の梅もようやく綻び始めた頃、桜開花予想が全国を駆け巡る。野点(のだて)には絶好の季節の到来も間近だ。

 

 野外でお茶を楽しむことを野点という。千利休の秘伝書とされる「南方録」にも野点の記述が見える。当時は野ガケ、フスベ(松葉や枯れ枝をくすべて湯を沸かす意)の茶と言った。野点という言葉は、もともと野外の遊びを意味する野駆けから転じたものだ。

 

 有名な野点は、1587年に豊臣秀吉が京都・北野天満宮境内で開催した北野大茶会である。貴賤も国籍も問わず参加者を募り、800もの席が作られたと伝えられる。黄金の茶室をはじめ、おなじみの大きな朱の野点傘はこの茶会で使われた。また、大名茶人として知られた小堀遠州が、師匠古田織部たちと利休亡魂の額を掲げ、吉野で花見の茶会をしたという記録もある。

 

 南方録は野ガケの極意を「定法ナキガユエニ 定法、大法アリ」と説いた。まさに禅問答である。さらに、えせ茶人は必要ないと喝破し、客も周りの景色に気を取られることなく心を茶に集中するように、と手厳しい。亭主も客も巧者でないといけないのだ。

 

 しかし、小難しいことは求道者にお任せして、まずはお茶を携えて外に出よう。茶かごを持って野山に繰り出したり、庭のテーブルで小鳥のさえずりを聞きながら紅茶を味わったりするのは格別だ。公園のベンチで一息つくお茶もいい。アウトドア好きの日本人にとって、お茶は最高のアイテム。フォーマルな茶会が苦手な人でも、自然の中で一服すれば、幸せな気分になれるはずだ。

 

 わたしはトレッキング茶会と称し、春は花、夏は涼、秋は紅葉を求めて山を目指した。天と地の境界にある山頂は、自然が織り成す究極の茶室だ。天空を仰ぎ下界を見渡し、抹茶を頂く。この爽快感は山でしか味わえない。

 

 山の天気は気まぐれだ。いつ急変するかもしれない天候に備えて、亭主と客との連係プレーが必要になる。「亭主も客も巧者でなければならない」南方録の言うところを実感する時だ。岩石に腰掛け、茶わんを両手に受け、自然に感謝し、まずは抹茶を一服。

 

 「うまい!」天空での抹茶は何にも増して最高のごちそうなのである。