中院仲子と猪熊事件 | Celtic Woman -Songs From The Heart-

はじめに、中院仲子(なかのいん なかこ)は後陽成天皇の女官(権典侍)です。

天正20年(1593年)に父を中院通勝、母を細川幽斎女に持ち、誕生します。

その後、日野資茂の猶子となり、女官・権典侍 中院局として宮中へ出仕しました。

そして、慶長14年(1609年)の猪熊事件に関わり、9月23日に徳川家康の命を受けた京都所司代・板倉勝重によって伊豆新島への流刑を判決されます。

仲子は元和元年(1615年)に許され京へ戻り、寛永12年(1672年)に80歳で亡くなるまで静かな余生を送りました。

法号は
宝慈院周芳。




そして、猪熊事件とは慶長14年に起こった宮中にて天下無双の美男子として名高い猪熊教利や、多くの公家や女官たちが関わった乱交事件です。

公家では左近衛大将の猪熊教利、
花山院忠長、大炊御門頼国、飛鳥井雅賢、難波宗勝、右近衛大将・中御門宗信、牙医・兼安備後ら、そうそうたる面々が関わりました。

女官では新大典侍・広橋局、権典侍・中院局、掌侍・水無瀬、典侍・唐橋局、命婦・讃岐、しかも、広橋局は後陽成天皇の寵愛を受けていた女官です。

広橋局と逢瀬を重ねていた公家は花山院忠長です。

花山院忠長は流刑での処罰にすみましたが、猪熊・兼安両人は死罪に処されました。

女官たちも流刑を申し付けられ、しばらくの間、京を追放されていたようです。

ちなみに猪熊教利の実家は山科言継を輩出した、山科家です。

中院仲子については烏丸光広との密通を疑われた、と言われています。




中院仲子が京へ帰ることが許された際、道中不具合があり、一人の侍女と共に歩いて京へ戻ったと伝わります。

しかし、その侍女は妊娠中であったことが祟り、直後に亡くなってしまいました。

また、中院仲子の実父は通勝でないという説もあるので……何ともいえませんが。