坂本龍馬の四国内での剣術修行道と言えば、即ち、嘉永六年(1853)三月と安政三年(1856)八月、江戸の千葉道場へ向った時と、文久元(1861)年十月、讃岐丸亀城下の矢野市之進(福岡家御用日記では「市之丞」と誤記)の道場へ向った折、歩いた道。
このうち、二回、千葉道場へ行く折、高知から歩いた道は土佐随一の大道・土佐北街道であることが分かっています。それは福岡家御用日記に「北山通」や「立川番所」という文字が記されているからです。
土佐北街道は藩政期、土佐では「北山越」や「北山道」と呼称されており、その街道の国境に近い番所が立川下名口番所だったのです。
しかし御用日記では、どの港から出航したのかについては記されていません。土佐北街道は土佐から瀬戸内に抜けるための道。
瀬戸内の主要港と言えば、土佐北街道終点の川之江から東に川之江港、多度津港、丸亀港、宇多津港がありますが、幕末、四国最大の港となっていたのが、丸亀港、それに次いで多度津港となります。
文久元年時、龍馬が芸州へ渡った(長州へ向うため)時は丸亀港から旅立ったことはほぼ間違いないと思われ、港西の福島の遊郭に龍馬滞在の伝承もあります。
また、丸亀港は土佐藩主の藩政時代後期の参勤交代時の旅立つ港だったこともあり、土佐から丸亀までの参勤交代道はよく整備されていました。そのルートは土佐北街道~讃岐街道丸亀道です。
このルートは土佐から丸亀への最短コースであるため、龍馬が江戸へ向う際も矢野道場へ行った時と同じく、そのルートで行った可能性が高いのです。
香川の龍馬研究家等は讃岐街道の白坂から金毘羅参詣道・伊予道~金毘羅表参道~金毘羅参詣道・丸亀道を行った、という机上の見解を以前から示していますが、龍馬がわざわざ遠回りをして丸亀に向うはずはありません。
文久元年時、龍馬は高知柴巻の田中良助邸に寄ってから旅立っているので、その時は旧本山城下から土佐北街道を歩いたものと思われますが、江戸へ旅立つ時は北街道起点の高知市の山田橋番所から旅立っています。後にこの番所付随の獄舎で、龍馬の初恋の人の兄で土佐勤王党員幹部の平井収二郎が切腹させられています。
一般に当時、山田番所を過ぎるとその日の宿は旧本山城下の宿屋群に投宿していましたが、その距離は何十キロもあり、且つ、標高の高い峠を複数越えなければならないため、現代の健脚家でも一気に本山町まで行くのは無理でしょう。
よって追体験時の初日の宿は、南国市領石のローソンがある交差点を東に進み、その先にある福留旅館(TEL088-862-0629)にします。この宿も安宿。山田橋番所跡からは十数キロ。
二日目の起点は領石番所跡ですが、この日は標高550mの権若(ごんにゃく)峠と1020mの国見峠の、ともに急登の峠を越えなければならないため、相当な体力を要します。
この日の宿は旧本山城下の旅館。現在でも複数あります。領石番所跡から二十数キロ。
三日目は特に標高の高い峠はありません。大豊町の郷士の本山家跡側から古道に入り、しばらく歩くと車道に下り立ちますが、香谷橋からは北街道と分かれて東へ進み、県道5号に出て、左折するとほどなくで日乃出旅館(TEL0887-78-0430)。本山城下からはやはり二十数キロほど。
四日目は香谷橋に戻って土佐北街道を辿るのが常道ですが、ズルをしたければ、そのまま県道を北進し、立川下名番所跡手前まで進めばいいでしょう。
この日は土佐北街道最大の急登の坂が待ち構えています。河合橋(河又橋)を渡ってしばらくして現われる算盤坂です。傾斜角が40度はあろうかという坂が一直線に続きます。そして標高1020mの笹ヶ峰越で伊予国に入ります。
この日の宿は四国中央市馬立の土佐藩主馬立本陣跡側にある「霧の森コテージ」(0896-72-3111)が場所的には最適ですが、併設のレストランが朝、何時から営業しているのかが気に掛かるところ。一人で宿泊すると割高になります。
五日目は土佐北街道終点の川之江まで行きますが横峰越(二枚目画像)等の峠があります。宿は川之江の市街地で。馬立からは15キロほど。
六日目は香川県観音寺市か三豊市の旅館やビジネスホテルに。川之江からは讃岐街道になります。殆ど車道化されているので、坂らしい坂はありません。両市の宿泊地間は5キロほど。
七日目は17~20数キロ歩き、終点の丸亀城下へ。矢野道場跡へは中府口番所跡から東へ数分。
丸亀港には巨大な青銅の燈台燈籠があり、近くの公園には、丸亀街道から移設された常夜燈があります。
龍馬が文久二年二月、丸亀から琴平、徳島県美馬市、三好市そして大豊町、高知市へと歩いた道程の宿泊プランはまたいつか紹介しましょう。
その道程や今日紹介した街道の詳細は拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ」を。
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