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次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

県庁所在地周辺はどこの県も住宅やビルが密集しており、無料駐車場なぞは存在しない。しかし高知市は太っ腹だ。日曜祝日の8~20時に限り、無料で駐車できる「道路」(路肩)が何ヶ所かに出現する。

 

'90年代までは10ケ所ほどあったが、現在は少し少なくなっている。私が把握しているものでは、県民文化ホール西方の一方通行道や、近森病院周辺道路は'00年代に入り、無料駐車が不可となった。

 

全ての箇所が現在でも駐車可かどうかは分からないが、以下のものがある。

①高知城公園北東道路

②上記東方の土佐女子高校から追手前高校北沿い道路

③丸の内高校と高知女子大の間の道路

④高知女子大南沿い道路

⑤高知女子大グランド北沿いの道路

⑥城西公園横の江の口川西沿いの道路

⑦升形交差点から南の道路の突き当たり手前

尚、午前中の早い時間帯に行かないと満車になることが多々ある。

 

現在私は神戸市須磨区から中央区にかけての低料金駐車場を探し中。須磨区等の地下鉄西神山手線沿いに終日500円のところが複数あったけれど、もし他に主要電車駅にアクセスのいいところや、路肩に駐車できるような箇所をご存知の方がいれば、是非ご一報下さい。

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先日の東日本大震災を受けて、高知でも南海大地震についての対策の再検討が行われましたが、次の南海大地震は各種統計から、今後30年前後以内に60%の確率で起こると言われています。

 

そしてその場合、東海大地震と同時発生型となることから、昭和21年時の南海自然、戦跡、ときどき龍馬-回天・魚雷艇隊本部宿舎 大地震よりはるかに大規模なものになります。つまり、2040年に至るまでの間に、確実に高知県沿岸市町村は壊滅するのです。


県下で、津波被害が最も大きくなるのは3/11にも浸水した須崎市の須崎湾沿い、その次が高知市の浦戸湾沿いになるのですが、実は須崎湾沿いには昭和20年4月、回天や震洋、魚雷艇等を擁す特攻部隊である海軍第23突撃隊が開隊し、司令本部を置いていました。

 

そして浦戸、宇佐、手結(住吉も含む)、室戸に派遣隊を置き、基地を設営しました。

このうち、浦戸湾沿いの浦戸派遣隊の本部宿舎が現在、辛うじて残っているのです。

 

但し、'06年に探訪時、既に半壊気味だったため、今度震度4以上の地震や津波が来ると確実に倒壊してしまいます。そうなる前に是非、回天ファンや戦跡愛好家に訪れて欲しいのです。更に近くには回天搭乗員宿舎が当時と変わらない姿で残っています

自然、戦跡、ときどき龍馬-回天搭乗員宿舎

そういう宿舎は残っているものの、回天や魚雷艇の格納壕や弾薬壕等は全て擁壁工事や工場建設等で消滅してしまっています。

 

本部宿舎は元々、戦国期に建設された長宗我部元親の別荘でした。藩政期に入っても藩主・山内氏が代々、同様に別荘「観海亭」として使用し、御船乗り式時には観覧所としても使用され、山内容堂公もこの屋敷を愛でていたと言われています。

 

明治期になると藩政期屈指の豪商だった川崎氏が買い取り、居宅として使用していましたが、それを海軍が接収したのです。

 

戦後は、高知市が側に高さ6mの堤防を築いたため、浦戸湾の眺望や日当たりが悪くなり、川崎氏は屋敷を放置したまま他所に移り、それ以後、屋敷は荒れるに任せる状態になっているのです。

 

屋敷の場所は浦戸大橋南袂の浦戸漁協北隣。入口が狭いので分かり辛いかも知れませんが、壊れた錆びた門がある所。

 

通称「浜御殿」と呼ばれていた屋敷は、かつては桃山様式の栂を使用した立派な家屋だったのですが、今は見る影もありません。

自然、戦跡、ときどき龍馬-回天格納壕跡

 

回天搭乗員宿舎は、そこから西の浦戸集落の中。福島商店の斜め向かいにある立派な土塀の屋敷。ここの道路沿いの二階で寝起きし、毎日、駆け足で西方の基地まで通っていたと言います。


尚、福島商店と搭乗員宿舎の家は去年夏、公開された映画「いけちゃんとぼく」に出てきます。その手前の受法寺南の歩道トンネルは映画で「二丁目トンネル」として登場していますが、ここは戦時中、浦戸海軍陸戦隊の烈霆隊が弾薬庫として使用していたため、民間人は上部の峠を越えていました。

 

回天の基地跡は浦戸集落西端の北側。そこの山際にずらっと回天格納壕が掘られていました。ここも「いけちゃんとぼく」に登場します。主人公の帰りが遅いのを心配して、母役のともさかりえが自転車で向えに行くシーン。

 

道路は北から北西、そして西へと角ばった曲がり方をするのですが、その間の山側にはかつて素掘りのコの字型隧道が掘られていました。

右手に防波堤を過ぎると、左手は一直線の擁壁となるのですが、戦時まではここは入り江で、周囲にずらりと魚雷艇の格納壕が掘られていました

 

基地や烈霆隊の戦跡の詳細は拙著「四国の戦争遺跡ハイキング」を参照下さい。

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痛ましい大災害があると外出する気になぞなれない、という方もいると思います。そんな時、インドアでしみじみ聴いて欲しいのが「泣ける曲」。

自然、戦跡、ときどき龍馬-太陽のユートピア


以前テレビ番組で確か、西田敏行司会の泣ける曲に関する番組を何ヶ月か放送していたことがありますが、あの番組は、歌にまつわる出来事や逸話を紹介して初めて「泣ける」可能性が出てくるのであって、歌そのものを聴いて泣ける訳ではありません。


しかし「歌」は本来、それ自体を聴いて感動するもの。そこで、関連の裏話等を添えるのではなく、単に歌そのもので「泣ける」曲を用意しました。

ただ、私にとっての泣ける曲はどうしても昭和の曲が多くなってしまうことをご了承下さい。


第10位・「太陽のユートピア」パティ

これは'80年に民放で放送されたドラマの主題歌。私の地元県では放送されなかったように思うので、単純に歌そのものを聴いて感動できます。


これは私の歴代女性ボーカルの曲では第11位。曲調はニューミュージックぽい歌謡曲。歌手はハーフの少女だったと思いますが、これがデビュー曲でヒットしています。


第9位・「この海へ」衛藤利恵

この曲は'90年代半ばのテレビ番組「知ってるつもり」のエンディング・テーマの一つ。歌い方や曲調は五輪真弓を彷彿させます。


第8位・「漂流者たち」西城秀樹

秀樹と言えば「ヤングマン」や'70年代前半のアイドル的曲を思い浮かべる方が多いことと思いますが、秀樹の持ち味はバラードの伸びやかな歌唱にあります。


そういう意味でも「ブルースカイ・ブルー」や「南十字星」等は絶品。

「漂流者たち」は根無し草的な男が故郷に帰り、愛する者と共に生きていこうとすることを歌ったもの。


第7位・「ててご橋」バーブ佐竹

'70年代前半に人気を博した時代劇「子連れ狼」の二代目テーマ曲。「ちゃん」の帰りを待つ大五郎の健気さが伝わってきます。


余談ですが当時ボンカレーのCMで「大五郎、5分間待つのだぞ」「ちゃん!」というパロディが流れていました。


尚、CDの「子連れ狼ミュージック・ファイル」には、この曲はテレビサイズのみしか収録されてない模様で、フルサイズのものは各種時代劇のテーマ曲を収録したオムニバスアルバム「ちょんまげ天国」に入っています。

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第6位・「夕焼け雲」千昌夫

「夕焼け」を見ると、なぜか悲しくなるもの。この曲は改めて千の歌唱力を再認識させられます。


第5位・「越冬つばめ」森昌子

'80年代前半にヒットした歌謡曲っぽい演歌。作曲者は円広志(クレジット名は本名かも)。

近年、「また君に恋してる」が若人の間でもヒットしたように、この曲も若い世代に受け入れられるものと思います。

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第4位・「二番目に云いたいこと」西田敏行

'80年代前半の、西田主演のドラマの主題歌。歌詞だけ見ると「あなた、水虫がむずむずしませんか?」といった、コミックソングっぽくなっていますが、曲調はイントロから涙を誘うような曲調。


つまり歌詞は、現代人は相手に何気ないことさえ聞くこともできない、そんな殺伐な社会に暮らしている、ということを言おうとしているもの。


第3位・「防人の詩(うた)」さだまさし
映画「二百三高地」の主題歌。日露戦争はみなさんもご存知のように、日本側が甚大な戦死者の上に勝利した戦争。このやりきれない思いを歌っています。

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尚、映画で流されたものは山本直純編曲の「昔っぽい」アレンジでしたが、シングル曲として発売されたものは、フォークの良さを活かした歌謡曲的アレンジ


第2位・「勇気あるもの」吉永小百合

永遠のアイドル「サユリ」のこの曲がヒットしたのは恐らく、昭和30年代後半か40年代初期だったと思いますが、当然私はリアルタイムで聴いていた訳ではありません。

私は作曲者の吉田正(「子連れ狼」の初代主題歌も作曲)が好きで、「作曲集」のLPボックスを買ったら、この曲が入っていて、何度も涙を流しながら聴いたものです。


歌詞とは異なりますが、私はこの曲を聴くと終戦後の復興をイメージします。


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第1位・「ANAK(アナク)~息子~」杉田二郎

この曲は元々、'70年代後半のアジアのある国のシンガーの歌。歌謡曲的曲調なので翻訳されて日本でも歌われ、そこそこのヒットはしました。但し、杉田二郎は元々フォーク界の人。


歌詞の内容は、自分の息子が成長するに連れ、不良になり、家を出て、悪の道に走ってしまったけれど、自分たちは息子の帰りを待っている、というもの。

震災で被災された方々も是非諦めず、家族の帰りを待っていて戴きたいと思います。



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今回の東北・関東大地震では、震源から1,000キロメートル以上離れていると思われる高知県でも津波が観測され、波高が最大だったのが須崎市の須崎港の2.6mで、家屋の床上・床下浸水、県道の冠水、漁船の転覆(下記画像は今回の津波とは無関係)等の被害がありました。

自然、戦跡、ときどき龍馬-転覆漁船

が、日本の観測史上最大と言われるこの三陸沖震源地震による波高よりもはるかに高い津波が、明治期、同じ地域を襲っていました。その時の波高は最も高いところでは38mに達したと言われます。まさに空前絶後の津波と言えるでしょう。


しかしその38m波高の津波も日本史上に於いては序の口で、最も古い記録の津波としては、白鳳13年(西暦684年)の「白鳳の大地震」が知られています。

自然、戦跡、ときどき龍馬-狭島古写真

これは東・南海地震でマグニチュードは8.4(現在の計測基準では9.5以上の計測不能値)。しかし南四国や近畿各県各地では、人知を超えた津波の伝承が伝えられています。


私の地元の土佐では、この地震が起こる前の石高は50万石余りとされていた旨の記録があり、地震により、須崎の黒田郡を始めとした、土佐湾沿岸の五郡が一瞬にして陥没・水没し、その結果、石高が22万石に減じた、というのです。自然、戦跡、ときどき龍馬-二代目狭島

これが事実とすれば、比較的地表に近いところが震源となり、震度10以上位の地震が起こったことになります。


30万石近くが水没したというのは大袈裟だとしても、実際に各地での水没の跡は確認されています。


須崎湾海底にある石垣等の人工物の水中写真が公開されたことがあり、また、昭和37年に爆破された浦戸湾上にあった狭島側の海底にも、石造台座のようなものがあったという事実や、桂浜沖にあったという陸地の伝承、黒潮町小島沖の海底で、土佐西街道の前身の古道の指差し道しるべが残置しているのが複数の人によって確認されたこと等、その例を挙げれば枚挙にいとまがありません。

自然、戦跡、ときどき龍馬-桂浜竜頭岬沖

更に驚くべき伝承としては、土佐湾から20キロほどはなれた山間の仁淀川町の津波の伝承があります。


普通に考えれば、土佐湾から仁淀川町までは標高数百メートル以上の山系が横たわっているため、この伝承はあり得ないのではないかと思えるのですが、明治の三陸沖地震をはるかに超える波高の津波が、海から仁淀川を遡っていって、仁淀川町に達した可能性も否定できないのです。

自然、戦跡、ときどき龍馬-八艘ケ森山塊

また、仁淀川町を津波が襲った時、洪水や山崩れもあったというので、地震前から大雨等で川が所々で氾濫していたことも考えられます。


興味深い伝説としては、町内の旧吾川村分の八艘ケ森(939m)の綱付け伝説があります。これは白鳳の大地震で平野部が水没した教訓を受け、この山の尾根に万一のための避難用の船を八艘、綱で繋いでいた、という伝承。

同様の綱付け伝承は旧仁淀村にもあります


大規模な東海・南海同時発生型大地震はこの数十年以内にまた発生するだろうと言われています。その時、高知県は「沈没」を免れることができるのでしょうか。


尚、狭島は大型タンカー等の航行のために爆破されましたが、その後、御畳瀬漁港近くに人工島として築造されています(拙著「四国の戦争遺跡ハイキング」に記載)。

また、八艘ケ森の各種登山コースは拙著「土佐のマイナー山part2」を参照下さい。


ps:この記事を書いて以降、高知大学の調査で、古代、高知県沿岸に波高50m以上の津波が押し寄せていたことが地層調査から判明しています。また、5月頃、前述の土佐西街道前身の古道道しるべの水没地の写真も撮りました。それらはこちらの記事 (←クリック)をご覧下さい。

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坂本龍馬の四国内での剣術修行道と言えば、即ち、嘉永六年(1853)三月と安政三年(1856)八月、江戸の千葉道場へ向った時と、文久元(1861)年十月、讃岐丸亀城下の矢野市之進(福岡家御用日記では「市之丞」と誤記)の道場へ向った折、歩いた道。

自然、戦跡、ときどき龍馬-土佐北街道笹ヶ峰越

 

このうち、二回、千葉道場へ行く折、高知から歩いた道は土佐随一の大道・土佐北街道であることが分かっています。それは福岡家御用日記に「北山通」や「立川番所」という文字が記されているからです。

 

土佐北街道は藩政期、土佐では「北山越」や「北山道」と呼称されており、その街道の国境に近い番所が立川下名口番所だったのです。

 

しかし御用日記では、どの港から出航したのかについては記されていません。土佐北街道は土佐から瀬戸内に抜けるための道

 

瀬戸内の主要港と言えば、土佐北街道終点の川之江から東に川之江港、多度津港、丸亀港、宇多津港がありますが、幕末、四国最大の港となっていたのが、丸亀港、それに次いで多度津港となります。

 

文久元年時、龍馬が芸州へ渡った(長州へ向うため)時は丸亀港から旅立ったことはほぼ間違いないと思われ、港西の福島の遊郭に龍馬滞在の伝承もあります。

 

また、丸亀港は土佐藩主の藩政時代後期の参勤交代時の旅立つ港だったこともあり、土佐から丸亀までの参勤交代道はよく整備されていました。そのルートは土佐北街道~讃岐街道丸亀道です。

 

このルートは土佐から丸亀への最短コースであるため、龍馬が江戸へ向う際も矢野道場へ行った時と同じく、そのルートで行った可能性が高いのです。

自然、戦跡、ときどき龍馬-土佐北街道横峰越

 

香川の龍馬研究家等は讃岐街道の白坂から金毘羅参詣道・伊予道~金毘羅表参道~金毘羅参詣道・丸亀道を行った、という机上の見解を以前から示していますが、龍馬がわざわざ遠回りをして丸亀に向うはずはありません。

 

文久元年時、龍馬は高知柴巻の田中良助邸に寄ってから旅立っているので、その時は旧本山城下から土佐北街道を歩いたものと思われますが、江戸へ旅立つ時は北街道起点の高知市の山田橋番所から旅立っています。後にこの番所付随の獄舎で、龍馬の初恋の人の兄で土佐勤王党員幹部の平井収二郎が切腹させられています自然、戦跡、ときどき龍馬-讃岐街道の火の見梯子と常夜燈

 

 

一般に当時、山田番所を過ぎるとその日の宿は旧本山城下の宿屋群に投宿していましたが、その距離は何十キロもあり、且つ、標高の高い峠を複数越えなければならないため、現代の健脚家でも一気に本山町まで行くのは無理でしょう。

 

 

よって追体験時の初日の宿は、南国市領石のローソンがある交差点を東に進み、その先にある福留旅館(TEL088-862-0629)にします。この宿も安宿。山田橋番所跡からは十数キロ。

 

二日目の起点は領石番所跡ですが、この日は標高550mの権若(ごんにゃく)峠と1020mの国見峠の、ともに急登の峠を越えなければならないため、相当な体力を要します。

 

この日の宿は旧本山城下の旅館。現在でも複数あります。領石番所跡から二十数キロ。

 

三日目は特に標高の高い峠はありません。大豊町の郷士の本山家跡側から古道に入り、しばらく歩くと車道に下り立ちますが、香谷橋からは北街道と分かれて東へ進み、県道5号に出て、左折するとほどなくで日乃出旅館(TEL0887-78-0430)。本山城下からはやはり二十数キロほど。

 

四日目は香谷橋に戻って土佐北街道を辿るのが常道ですが、ズルをしたければ、そのまま県道を北進し、立川下名番所跡手前まで進めばいいでしょう。

自然、戦跡、ときどき龍馬-'10年の愛媛新聞記事

 

この日は土佐北街道最大の急登の坂が待ち構えています。河合橋(河又橋)を渡ってしばらくして現われる算盤坂です。傾斜角が40度はあろうかという坂が一直線に続きます。そして標高1020mの笹ヶ峰越で伊予国に入ります。

 

この日の宿は四国中央市馬立の土佐藩主馬立本陣跡側にある「霧の森コテージ」(0896-72-3111)が場所的には最適ですが、併設のレストランが朝、何時から営業しているのかが気に掛かるところ。一人で宿泊すると割高になります。

 

五日目は土佐北街道終点の川之江まで行きますが横峰越(二枚目画像)等の峠があります。宿は川之江の市街地で。馬立からは15キロほど。

 

六日目は香川県観音寺市か三豊市の旅館やビジネスホテルに。川之江からは讃岐街道になります。殆ど車道化されているので、坂らしい坂はありません。両市の宿泊地間は5キロほど。

 

七日目は17~20数キロ歩き、終点の丸亀城下へ矢野道場跡へは中府口番所跡から東へ数分。

丸亀港には巨大な青銅の燈台燈籠があり、近くの公園には、丸亀街道から移設された常夜燈があります。

 

龍馬が文久二年二月、丸亀から琴平、徳島県美馬市、三好市そして大豊町、高知市へと歩いた道程の宿泊プランはまたいつか紹介しましょう。

 

その道程や今日紹介した街道の詳細は拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ」を。

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