≪招賢閣での浪士の活動≫
車塚古墳から南は、私は萩往還ではない道を辿ったため、しばらくは机上解説になります。
萩往還は防府高校沿いを南下して行きますが、御茶屋へのルートが遠回りになっているのは、城と同様、防衛面を考慮してのことです。
高校の南にはセブンイレブンがあり、そこから二軒を過ぎると、車道と歩道が交差する四差路がありますが、その東西に貫く車道と歩道こそ、史上初、私が解明した防府市街地区域の脱藩の道です。その根拠は一昨年、解説済。が、龍馬の文久二年2月時の追体験をするならば、萩往還を直進します。
往還は明覚寺を左にぐるっと回り込むと、ハラ美容室が角にある十字路を左折
します。更にマリン防府店が角にある十字路を左折した突き当たりが三田尻御茶屋跡です。
その十字路を左折せずに直進した所の右手には、寛永10年(1633)から本陣を務めていた五十君(いぎみ)家の母屋が残されています。酒造家の豪商だった五十君氏は、慶長16年、御船倉が下松から三田尻に移って以降、町並み整備に尽力し、その功で本陣に指定されたのでした。
三田尻御茶屋については、数多くの歴史関係の書籍や歴史ファンのブログ等で紹介されているので、私が解説するまでもないでしょう(拙著ではある程度解説している)。ただ、文獻やサイトによっては、御茶屋の規模は、今も昔も変わらないようなことを綴っているケースが見受けられますが、これは誤りで、最盛期、敷地は北の三田尻病院の地まで広がっていました。
そして肝心なのは龍馬が宿泊した招賢閣
の跡地。「伊予・脱藩の道の父」村上恒夫氏は著書で御茶屋の北側にあったとの見解を示していますが、龍馬と土佐の幕末史研究の先駆者、故・平尾道雄氏の著書に描かれた図では、招賢閣は大観楼の隣に位置しています。
但し、これは幕末期の図ではなく、明治以降の可能性があるため、敷地は幕末期とは異なり、築山等の位置関係も現況とは異なっており、この図を元に跡地を探ることはできません。
いずれにしろ、招賢閣は、御茶屋敷地の北寄りにあったことは間違いないでしょう。現在地でいうと、三田尻公園とそうごう薬局、二軒の民家が建つ地辺りでしょう。
その招賢閣は、龍馬が脱藩時に滞在した
文久2年時には、その名称が存在していなかったことはかつて述べました。だからこそ、高松順蔵は脱藩古文書の「招賢閣」の箇所にバツ印をして「三田尻」と書き直したのだろう、ということもその時解説しました。
文久3年8月18日の政変によって都落ちした尊攘公卿と共に土佐の土方久元も随行してきましたが、これ以降、全国各藩の脱藩者も招賢閣に収容されることになります。
土佐出身者も多く来館し、有名なところでは中岡慎太郎の他、松山深蔵、千屋菊次郎、上岡胆治がおり、慎太郎や久元は招賢閣会議員に選出されています。
招賢閣での浪士の日課は、朝六つ時に起
床、京の御所方向に向かって遥拝、朝食後は各学問の勉強、昼食後は武術の稽古、夕食後は兵書の講義を受けました。
また、月に一回、遠足や音楽の練習もありました。
元治元年6月16日には、招賢閣浪士で編成された忠勇隊が長州諸隊と共に三田尻港を出港、京へと上って禁門の変や山崎の戦いで奮戦するものの、松山深蔵等、土佐や長州、その他多くの藩の浪士が落命しました。
同年8月、公卿らが三田尻から山口に移ってからは招賢閣での浪士の活動も下火になり、慶応元年には浪士たちも山口市内の屯所となった寺院等に移され、招賢閣は歴史の表舞台から消えることになるのです。
次回、龍馬が文久2年2月初旬に出港し、3月29日に再び上陸した三田尻港界隈を記述します。
早く脱藩の道の解説に入ってほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリックon