まずは深く深く御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 

この20年間、失敗は全て自分の不徳

 

ささやかな成功となんとか今日まで生きてこられたのは多くの「お蔭様」

 

お世話になった方に全て感謝の気持ちを書くと1年以上かかりますのでそれは死ぬまでにやります

 

 

 

2002年1月6日、バイト先の中華料理屋をインフルエンザで1週間休んだら無断欠勤扱いでクビになり、ロッカーのスーツも盗まれ、真冬に薄いシャツと下半身はパンツと靴下と革靴で泣きながら納屋橋交差点を歩いていた夜。

 

 

広告の仕事ならできるかもと個人で初めて、1月6万、2月9万、3月15万・・・・7月には100万円近くを稼ぐようになりました。

 

そしたら友達でDJで税理士の武山が来て「中村さん税金のことわかります?このままだと売上1億円くらいになってものすごい金額を払わなければなりませんよ」18年後、mdmを救うことになるこの男が笑いながら言った。

 

 

「え?ぜ~きん?なにそれ、そんなお金ない、使っちゃってない」

 

 

「だったら会社にしたらどうですか?税金対策は随分有利になりますよ」

 

 

「お?かいしゃ?俺社長?税金安くなる?じゃ作る!」

 

 

で2002年7月29日に有限会社mdm設立、大好きな雑誌広告をメインに、10年後にはデジタルモバイルに広告媒体が変わっていく、時代の変化を察知し順応していく会社という意味。

 

 

 

小堀社長のご厚意で事務所は月刊Cheekの別館ビルの4階の隅っこ。机ひとつ、FAXは共同使用

 

 

そっからオシャレなオフィスビルに引っ越して従業員12人まで増やして、この先10億、20億まではチョロいなって思いながらポールスミスのスーツを着て青年実業家ごっこをしていました。

 

高級スーツのお尻がすぐに破けること以外は順風満帆でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてリーマンショックが襲い掛かります。

 

 

仲間の同業者は毎月のように倒産し、うつ病になり、命を絶ってしまった仲間もいました。

 

 

 

mdmも毎月600万のレギュラークライアントを失い、他にお金を払わず逃げられた未収金額が数百万発生しました。

 

 

広告業は100万売って利益が15万程度の商売です、それが10万になり、5万になり・・・このまま続けても倒産は避けられない状況です。

経営コンサルタントからは早めの自己破産を勧められましたが、ここでも武山が「あなたの性格的に諦めたら絶対ダメだ!」と言い張りました。

 

このとき、政権交代が起こり、亡くなった安倍さんが「悪夢の・・・」とバカにしていた当時の民主党政権が制定した「セーフティーネット法案」に僕ら中小企業の経営者は命を救われます。

 

 

会社の延命措置をしている間に藁をもすがる思いで名古屋のトップのお金持ちの人たちと交流を持ち大須に彼らの趣味のためにレースクイーンの派遣会社を作りました。

 

 

そのタイミングでラグビー仲間からCBC開局60周年記念ドラマのコーディネートを仰せつかいます。

 

 

豪華キャストと堤幸彦監督の作品は話題を呼び、このドラマを通じて現在も芸能界で大活躍している森咲智美、清里千聖、高橋萌らとの邂逅がありました。

 

それら若き才能に溢れた美少女たちもオーディション参加を表明し、乾坤一擲、16ページの企画書を大須商店街連盟に魂を込めてプレゼンしました。

 

 

それが全国初の商店街アイドル「大須スーパーアイドルユニット」略してOS☆Uです。

 

 

伴ちゃんや瑛里香や岡島も参入し、OS☆Uは1年くらいで人気者になりました。

 

 

 

 

でも彼女たちが人気者になっても僕には1円の給料もありませんでした。

 

 

とうとう、大須の会社を去ることになり、でも僕はお金持ちのオーナー様のおかげで獲得したアイドルビジネスのノウハウを手にmdmの再建を図ります。

 

 

2012年に自分の会社mdmで、誰からも口出しされず、100%自分のアイディアでプロデュースする新しいアイドルユニット「dela」を立ち上げました。

 

 

 

会社の従業員は「俺たちは広告マンとしての中村浩一についてきた。女子中高生をカネに変えるビジネスには付き合えない」と辞表を投げつけられました。

 

 

とうとうmdmは、僕の専門学校の生徒だった事務の神田さんだけになってしまいました。

 

でも自分のプロデュースに間違いはない絶対的な自信はありました。

 

 

 

 

中日新聞社やCBCテレビ・ラジオ、東海ラジオ、FM愛知、そして麻雀仲間が多いメ~テレ、名古屋のメディアのほとんどはこの新時代の産業をこぞって応援してくれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

delaは2014年に名古屋アイドル史上最高の美少女「瞳さとみ」を迎え一躍全国区になり最初のピークを迎えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後2016年には名古屋の観光文化交流特命大使を拝命すると同時に松坂屋がスポンサーにつきます。

 

これで一気に風速が増しました。

 

 

松坂屋のモデルとアンバサダー就任の破壊力は凄まじいものでした。その後、愛知県、中日ドラゴンズ、中部国際空港、名古屋鉄道、すき家、Softbank・・・続々とdelaを応援していただく企業に参入していただきました。それにつれて本業である広告もしっかり仕事をいただけます。

 

 

愛知県の文化と産業は松坂屋とTOYOTAが創ってきたんだなあと思い知らされました。

 

 

 

2019年には海外進出は21回を数え、全国誌と名古屋のメディア露出も多くなり、収入面においても年収500万円超のタレントを複数名輩出することに成功しました。(delaはいわゆる握手会・チェキバックはゼロで全てモデルとしての肖像権料やタレントとしての芸能活動の収入です、なのでファンの方との交流を図るサイン会には500円で参加できるシステを作りました)

 

高校生以上の平均月収も20万を超え、僕が22歳のころ卒業論文に書いた「芸能文化の地域主権論」がついに達成した瞬間でありました。

 

 

mdmは経営のピンチを脱し、全ては希望の光に包まれ、このままいけば僕の収入ももう少し増やして、BMWを残価設定型ローンではなく現金で買って、またポールスミスを着こなすような生活に戻れると浮かれていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして2020年がやってきます

 

 

 

 

 

 

 

 

自身の大失敗とコロナのエンタメ業界への直撃、明らかな脳機能の欠損による経営判断のミスに次ぐミス・・・・

 

 

聴覚や運動機能にも支障をきたし、もう生きているための気力を保つのがが難しい状況に陥りました。

 

 

このとき、弱り切っている僕の姿を見て火事場泥棒のように盗みを働いた人たちの顔よりも「お前は必ず復活できる」と応援してくれた人たちの顔を僕は一生忘れません。

 

 

 

「汚名を着せられたまま死ねるか」

 

 

 

と思えるようになったのはようやく1年後のことです。

 

 

 

毎度ピンチの度に代役を引き受けてくれた武山、プロデューサーをかってでてくれた近藤薫さん、引き続き残ってくれた渡邉さん

 

 

最初に東京から駆けつけてくれ「絶対大丈夫だ」と励まして、有名な占い師を紹介してくれた小学校から親友のS

 

 

120万の現金を手にもって現れて命をつないでくれたタカリン、中村を助けるためだとCMを打つような業種ではないのに番組スポンサーになっていただいた岸社長

 

 

常に味方をしてくれ、名古屋の芸能文化の発展を真剣に考えてくれているFMAICHI横内さん

 

 

「大丈夫か!俺にできることはあるか?」と電話をくれて自社CMにタレントを急遽起用していただいた中広現社長大島さん

 

 

「なんで俺に相談しなかったんだ!」と激怒して殴ってくれた元ラガーマンでフォトグラファーの伊波さん

 

 

超多忙にもかかわらず話を聞いていただいた某出版社M編集長(ご迷惑がかかるといけないのでお名前は控えます)

 

 

自身の鬱からの生還を数時間に渡って話してくれた元警察庁のエリートYさん、40億の借金を全て返済した伝説の男、惟信高校同級生の田村誠

 

 

ボスはボスのままの厳しい助言をいただいた流行発信グループ小堀社長

 

 

 

「ラグビーグランドに帰ってこい!まだやれる!」と何度も熱心に誘ってくれたラガーマンたち

 

 

dela3期生の池永百合ちゃん、桑名ありさちゃん、あと元ベリーボタンのメンバーも「私は恩を忘れたくないので応援しています」とナイショでメッセージをくれました(バラシてごめん)

 

 

 

そして「中村さん、家にこもっていてはダメだ」とナゴヤドームやごはんや、時には泊りの旅行に連れ出してくれたdelaのファンのみなさん

 

 

 

物心ともにdelaを応援していただきながらも事故で急死された野村先生

 

 

テレビ業界の主でありOS☆Uのころから事実上の影のプロデューサーだった中Pさん

 

 

ウラで動いていた人間の真相を教えてくれた宇都宮先生

 

 

 

 

 

あと、迷ったけどどうしても記しておきたい方がいまして・・・・

 

 

 

 

 

それは清里千聖のお父様です。

 

 

 

 

それは素晴らしい演説でも力に溢れた説法でもありません。

ふらつく足でご説明回りに伺ったとき「大変だったね、中村さん大丈夫?」と心配して多くの励ましの声をかけていただいたあの有名な千聖ママの横で僕を指さして、ただ一言

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あんたぁ・・・こっから復活したらすげ~な」

 

 

 

 

 

これだけです。

 

 

 

この短い一言にどれほど救われたか、今思い出しても涙が出てきます。一生忘れません。

 

 

 

それまで毎日毎日、拷問のような、多くの激しい罵声と嫌味の籠った詰問と長時間の電話による尋問のような扱いも受けてきました。

 

 

これは当然で、自分の将来、また自分の娘のことを考えれば至極あたりまえの反応だと思います。

 

 

 

だからその人達を恨んだり、ましてや自分を被害者扱いすることはありません、当然の報いだからです。

 

 

 

 

 

 

 

OS☆UをZeppNAGOYAで卒業した翌日、8時間に及ぶ清里家の家族会議、そのときプロデューサーを離れてもう6年も経つ僕を呼んでくれました。

 

このご家族においては感謝の気持ちを日数で減らすることはしないのか?と思いましたが、それからさらに月日は過ぎていました。

 

 

 

それがこの名古屋弁のイントネーションのひとことです。おそらくご本人もそれほど重要な台詞を残したとは思っていらっしゃらないかと思います。

 

 

でもそのときの僕には魂の奥底まで刺さる一言でした。

 

 

 

ここから復活したら・・・・か。

 

 

 

そんなこと考えてる人がいるのか?

 

 

ということはこれは絶望ではないのかもしれない、今は無理でも、時がくれば、また頑張れるかもしれない・・・

 

 

とりあえず、今は生きることを考えよう。人に任せて、今は挑戦できなくても、まずは生きることを考えよう。

 

 

 

 

 

 

 

このお話は、僕がこの先もしも、成功者として認めていただけることになったら、ご本人と千聖ママにだけお伝えするべきで、次期尚早すぎるのは認識しております。

 

 

明日朝になったら恥ずかしくて消しているかしれません、でもこのタイミングでお話ししてしまいました、ただただ、感謝の気持ちをお伝えしたくて。そして、皆さんの回りに失敗して迷惑をかけてるバカがいたら、どうか罵声を浴びせるのではなく、励ますのでもなく、このお父さんのような声のかけ方で救われる人もいるのだという、それが日本社会にとってもしかしたらプラスになっていくヒントなんじゃないか?と、このひどい自殺大国の鬱社会においてそれを知っていてほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

今日、武山が事務所に来て、儀式として毎年7月末に行われる決算書の20年目のまとめをしました。

 

 

武山と渡辺さんとmdmクライアントとdelaとファンの皆様のおかげで2年前の大赤字からは脱し、会社は黒字転換しました。

 

 

2020年秋に倒産の現実味が色濃くでていた会社は奇跡的に生き延びて20周年を迎えることができました。

 

 

 

 

 

運のみです。

 

 

 

 

自分の力、才能などほんのささやか。全てはピンチの時、力を貸してくれた人たち「お蔭様」

 

 

 

 

最後に、いつも支えてくれる家族と、幼少期から感謝の気持ちを持つことの大切さを説いてくれた母ちゃんと、いつも的確な助言とたまにおこずかいをくれる姉ちゃんと、20年前プータローから会社を作ったとき誰より誇らしげに眺めてくれて昨年その人生を終えた父ちゃんにも感謝を込めて。

 

 

 

 

 

 

いやあ、20年?なげ~よ!!!!!!それと濃すぎるだろ~~~が!!!

 

 

 

 

俺、あと50年くらいしか生きられんから、すこしづつ御恩は返していく、つもりではいます。

 

 

 

 

 

ありがとうございました!21年目もよろしくお願いいたします!

 

 

 

 

(あ、あと昨日を持って筆頭株主ヒラ社員の名刺は捨てました)

 

株式会社エムディーエム 代表取締役 中村浩一