別に宗教家ではないので、あんまり「奇跡」って言葉を使いたくないのですが・・・・

この業界、本当にありえないことがたくさん起こり、本物の超能力者がたくさんいることも実感せざるを得ない今日このごろ。




先週の金曜日、iPhone5に社員から電話

「ナカムラさん、『にわさん』から会社に電話ありました、折り返し電話ほしいとのことです

「あぁ?丹羽さん?台湾ライブのピンボケ写真のお詫びならもういいですって言っといて

「でも、女性なんですけど・・・」

「女性のにわ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まさか










丹羽容子・・・・・・・・・・・・・










丹羽容子



SpyGirlの全盛期(←現編集部、僕の生徒には失礼だが、近藤千尋さんがメインの後期スパガや今のNAGOYA GIRLとは比べ物にならない時代の爆発的に売れていたスパガ

小寺由華、木下美由紀、丹羽容子の超人気モデル3人を擁したSpyGirlは2006年、名古屋のレインボーホールでスパガモデルだけのガールズファッションショーを開催

3,000枚のチケットは受付開始50分でSOLDOUT、当日の「立ち見席」には2,000人の応募があり、抽選に500Mを超える長蛇の列ができるという異常な人気。




中でも最年少の丹羽容子は、誌面登場わずか一年で当時すでにカリスマだったトップモデル小寺由華(写真↓)



をあっさりと抜き去り、わずか18歳でダントツのトップモデルに。


遡ることさらに3年


ナカムラが芸能プロの審査員をしていた当時、15歳でスカウトし大須で開催された美容愛知のヘアメイクショーでデビュー


16歳のとき、年齢を2年偽って(スパガモデルは18歳以上が条件)SpyGirl編集部に紹介、そこから超絶美少女丹羽容子の伝説は始まります。




トップモデルとなった丹羽容子の人気は凄まじく、当時ナカムラと名古屋駅で待ち合わせしても「電車に乗れないから名古屋まで行けない」(←理由は女子高生に囲まれて身動きとれないから。この件は前にアメブロに書きました)


特筆すべきは

丹羽容子
は女子高生・女子大生からカリスマと呼ばれただけでなく、男性からの支持が圧倒的で、2006年7月号で水着で表紙モデルに登場したときは「女性向けファッション誌」スパイガールを女性のみならず男性が挙って買い占め、名古屋市内のコンビニからSpygirlがなくなるという事件が発生したほど。



同年全国発売された、スパガモデル写真集も完売。



18歳の時には、一番売れてる某全国誌から水着グラビアのオファーがあったものの皮膚炎で断念、その時の「代役」で誌面に登場し、ブレイクしたのがあの、スザンヌです。


そして人気絶頂だった19歳であっさり引退
(いろんな説がありますが、すべて違います。真相は本人と一部の人しか知りません)



その前後




僕の携帯に大手広告代理店雑誌部を名乗る人物から「Cancam海老原友里卒業後のメインモデル候補に丹羽容子の名前が挙がっているから何とか会わせてくれないか」との問い合わせが何度もあった事実も過去にブログに書いたとうり。



すでに家族以外では僕しか連絡が取れない状態になっていたためです。











あれから5年・・・・・・・









僕は容子の携帯に電話しました、ちょっとハスキーな声はあのころのままです。



「ナカムラさあああああんお久しぶりです。OS☆Uとdelaすごいですね、ウチのお父さんナカムラさんのテレビ出てたのみてたんですよ」


「だからもうOS☆Uはやってないって、前にmixiでメッセした蝶野晶美も今は扱えない。お父さんたしか警察官だろ、もう許して。悪いことしてないから、今は



「そうなんですか、あっちに電話しようとしたんですけど、ナカムラさんの名前なかったから辞めときました」



「今年よく聞くな、その話。まあ、OS☆Uの子たちは頑張ってるよすごいなぁと思う。でも間違って電話しなくてよかったねあっちに入っちゃうと、〇〇と〇〇が○○してるから、一見〇〇にみえるけど〇〇がなくてみんな〇〇になって〇〇か○○か選べとか言われて〇〇すると、〇〇されて〇〇も〇〇されなくて、逆に〇〇するぞとか〇〇されて、ファンもその〇〇は知らない。そのくせヨソの〇〇〇の〇〇は〇〇で、本当に〇〇な子たちが〇〇〇〇している、社長も〇〇も大変だろうなあ、まあ、それも〇〇の〇〇までだろうけど」




「ほんとですかそれ。なんか、〇〇鮮みたいですね




「まあ、俺もテ〇〇ン3回くらい打ちこまれてるからなぁ、それでも千聖やみんながいるうちは応援するけどね。いなくなったら知らんけど」




「私のこれからのこと一度相談に乗ってください、来週水曜日お昼、中日ビルで」




「了解




んで今日11:30授業終わりのホテルコムズ待ち合わせに相変わらず方向オンチで現れた24歳の丹羽容子

もうね・・・・・・





それはそれは・・・・・・・・




あたりまえだけど・・・・・





超キレイ








「あのさ、今でも惜しいと思うのはやっぱCancamだなぁ、本当に電通の人だったかどうか分からんけどストーカーだらけだったし、誹謗中傷も、人気あった分、女の妬みも凄かったよね



「あ、それ本当ですよ、ていうか、Cancamだけじゃなくて、JJの編集部の人は私が働いてた丸栄のROJITAまで来ましたよ、他にも何誌か名刺持って・・・」



「まじかよ




「○○さんが勝手に全部断っちゃいましたからね、私的にはあのグラビア事件ですかね、分水嶺は」



「まあ、でも当時のモデルは水着や肌の露出を軽蔑してやらなかった衒いがあったからなあ、グラビアなんてメジャータレントへの一番の近道なのに。それにしてもいつの時代も本人の夢を勝手にぶち壊す自分達の儲けのことしか考えてない下衆はいるんだなあ。」



「確かにそういう空気はありましたね、私も今となっては強行してもやっときゃ良かったかなと」



「まだ、大丈夫君ほどの完璧なプロポーションを持った女は他にまさみんくらいしかいない」



5年前から最近のいろんな話をした後、核心に。



「ナカムラさん、やっぱり、私はナカムラさんに見つけてもらってあの世界に入れたわけだから、女として残された時間を、ナカムラさんで終わりたいと思っています。図々しいお願いですが、もう一回プロデュースしてください。」




驚いた・・・・・





なにがって




このセリフを聞くのは今年2回目だから。それもほとんど一字一句変わらず。こんな偶然あるんか




「ところで、なぜこの日に設定した?やはり超能力で俺と君を引き合わせたという、お母さんの思し召しか?」



「いえ、最近は家田荘子さんに聞いています。あの人も本物の超能力者です。2012年12月12日に再会する人がアナタの運命を元の輝きに戻してくれる。と。だからこれはナカムラさんのことだと。」



「やっぱりなあのさ、俺のブログ見ただろ、俺が如何に『12』」という数字に取りつかれて、12に影響された人生を、出会いを背負っているか書いてあっただろ」


(※携帯番号、家電、高校の受験番号、大学の受験番号、車のナンバー、誕生月、ラグビー部の背番号、OS☆Uの1期生オーディション番号2、12、24、OS☆U2期生オーディション番号12、delaオーディション番号12、などなどなど全部12番が左右するのと共鳴しているというオカルトチックなハナシ)



「さあ、知らないです



まあいいや、いかに俺がA.D2012年、平成24年に照準を絞って何年も前から準備してきたか、俺の人生の最初の集大成がアンノ・ドミニ2012なんだ」



「ほう」



「そして今日は、2012年12月12日今12時を回ったところ。なにか奇跡が起こらない方がオカシイ訳さ




「まあ、よく解りませんが、よろしくお願いします



「ああ、よくもこれだけ多くのモデルクラブからの誘い(←凄い名刺の数)を断って連絡してきてくれたよ。でもあんまり超能力は使わなくていいからね、ちょっと怖いから俺の知ってる子でもう一人それ使える子いるんだけど、本人はまだ気づいていないかなあ・・・・・」






劃して、



丹羽容子


名古屋美少女ファクトリーから



 アンコールデビュー決定



中村浩一プロデュース、今度はどこまで行けるか




ちょっとリハビリして、皆さんの前に登場するのは20日のdela撮影会見学か?




12月24日のdelaファーストライブのファッションショーゲスト出演で考えています。




モデルとして復帰するのは来年からかな。いずれにせよ、この話は業界にかなりの衝撃を与えることになるのは間違いないですね。



アナタの周りの23歳~27歳の女子に聞いてみてください。丹羽容子は業界の認知度と、格が違います。そういうレベルの子です。河合リカはじめdelaのメンバーにもいい刺激になるでしょう。





最後に





僕は超能力者ではないですが、はっきり言いますが、来年、もっとすごいことになりますよ




さあ名古屋の、愛知の美少女達よ、集えよ、名古屋美少女ファクトリーに






NBGFプロデューサー中村浩一











ばいちむ