山下晃彦先生とのお話 | こっちゃんの不楽是如何(たのしまずんばこれいかん)

私が、自身の演劇の師である山下晃彦氏の訃報を知ったのは3月31日の夕方。

以前山下先生演出の下、同じ舞台に立った先輩俳優のSNSの投稿によるものだった。

体調が悪いなんて話は全く聞いたことがなかったし、今年に入っても精力的に活動されていることはSNSを通じて何となく知っていた。

心が動揺して落ち着かない、だけどそのお知らせを裏付けるようなソースが他になく、心のどこかで実感が湧かなかった。
しかし翌日、教えて頂いたお通夜の会場に伺うとしっかりとその名前と慣れ親しんだ笑顔の先生の写真があった。

その日は4月1日だったけれど、まぎれもなく本当の出来事だった。

 

私が先生と出会ったのは1999年の、多分秋頃だったか。

当時通っていたタレント養成所の演技コースの講師だったのが山下先生。
先生の最初の授業は、発声だったり文章を読んだり、とかした記憶がない。

お互い自己紹介をして、その後車座になってどういう芝居がやりたいとか、お芝居をするにはどういう風に心を持っていくのか、何を感じ取って表現していくのか、みたいなことを話したような気がする。
まだ二十歳前後の、俳優としても人間としても未熟な我々に対しても、片方向に何かを教え込むのではなく、こちらが表現したものをいったん受け止めてくれて、それをどうしたら表現としてよりよく伝えることが出来るのか、一緒に悩み考え、時には示してくれた。

芝居に熱中しすぎて、レッスンの終業時刻を30分以上オーバーするなんてしょっちゅう。
よく事務局の人に睨まれていたっけ。

 

私が養成所を卒業?退所?して以降も交流はありましたが、なかでも演劇を通して東日本大震災の被災地支援を目指す「てのひらプロジェクト」の2014年3月公演の「掌の宇宙」には久々に演者としてお誘い頂いた。

この公演では先生の狂言の師である五世・野村万之丞(八世・野村万蔵)氏のの一説を、大トリとして私に任せて頂けたのが少しでも俳優として認めて頂けたような気がして嬉しかったな。。。

そしてそれが私が先生に演出を受けた最後の機会になってしまった。


私が先生とご一緒した舞台はどれもお金や機材が潤沢にある訳でもなく、演じる俳優も初めて舞台に立つような人がたくさんだった。ところが無いなら無いなりに逆手にとった演出をしてしまうのが山下晃彦という人だった。

それはさながら私には魔法のようにも見えた。

「先生って、軍略家でいえば寡兵で大軍を打ち倒すような、演劇界の楠木正成とか真田昌幸みたいですよねー。」といったら照れたような笑顔で「なんだ古藤、急に褒めるなよ」といつもの笑顔で返してくれたことを覚えている。

 

葬儀に列席された方も先生のニコニコした笑顔が忘れられない、と口々に言っていた。

しかし葬儀の席で対面した先生はとても凛々しく、力強い男性の顔をされていた。

おもむろに養成所同期だった子が「最初の授業の時、先生はお母様に「あなたは黙っていると顔が怖いから、いつもニコニコしていなさい」と言われたから、いつも笑顔なんだ。」と語っていたと言った。別の同期は「先生は親御さんのお葬式でもニヤニヤしちゃって怒られたそうだ。」と教えてくれた。

 

告別式の最後、車まで棺を運ぶ役割に加わらせて頂いた。
先生の現世での最後のアクションに、不詳の弟子ながら携わらせて頂くことが出来て、何だか涙が止まらなかった。

俳優として、人として山下先生に会えたことを、心より誇りに思います。

 

もう一週間経つけれど、全然文章がまとまらない。
これからもふとした時に思い出すんだろうな。