『徒然草』の191段です。
自分自身も夜派なのですが、今と当時とでは夜の暗さがまったく違いますからね。
当時の夜の暗さで、同じく夜派だったかどうかは分かりません。
夜になると物は見映えを失う、という人は非常に残念でならない。
あらゆる物の美しさ・装飾・きらびやかな色彩なども、むしろ夜にこそ素晴らしく感じるものだ。
昼は、簡素にし、地味な姿であってもよかろう。
しかし、夜はきらびやかで華やかに美しい装束であるのがとても良い。
人の様子も、夜の燈火に照らされた姿こそ、素晴らしいのはいっそう素晴らしく、物を言うときの声も、暗い中で聞いているときに、心遣いが感じられるのは奥ゆかしい。
お香の香りも楽器の音色も、ただ夜こそひときわ素晴らしい。
たいして特別なこともない夜が更けた時分に参上した人が、小綺麗な格好をしているのはとても良い。
若い者どうしで、よく注意して見る人は、いつともなくずっと観察するものであるから、特に気を許してしまいそうな時ほど、晴れだの褻だの関係なく、身だしなみを整えておきたいものだ。
身分のある男が日が暮れてから洗髪して頭髪を整えたり、女も夜が更ける頃にそっと退出して鏡を手に取って化粧を施し、それからまた元の座に戻ったりするのこそが素晴らしい。
本文に「色ふし」と出てきて、「きらびやかな色彩」と訳したのですが、一説には「晴れの儀式」とのこと。
んー。
昼の儀式と夜の儀式を比べて夜の方が良い、という文脈なのかなあ?
個人的にはいまいち納得できないですね。
さて、夜に身だしなみを気にして整える人を賞賛しています。
“江戸っ子の美学”に通じるものがありますね。
江戸っ子は表地には地味な色使いを良しとするも、裏地は派手なものを通としたと言います。
見えないところを美しくする、というのは日本人の好むところです。
で、気づいた人に「よく気づいたね~」という。笑
ただ一方で「闇夜の錦」ということわざもあります。
見えない夜に、美しい錦の着物を着ても見えないから無意味だ、ということです。
いつから使われていることわざなのかはしりませんが、遅くとも江戸時代には使われていました。
というのは与謝蕪村の『新花摘み』の中にこのことわざが出てくるからです。
僕は単純に夜が好きです。
昼も好きですけど(笑)
夜の方が人が少ないし、テレビ番組も面白いし、静かだし。
↑理由。笑
兼好法師が言っているのと理由が全く異なる気がしなくもないのですが、まあ気のせいでしょう。
【本文】
夜に入りて物の映えなし、といふ人、いと口をし。
万のものの綺羅、飾り、色ふしも、夜のみこそめでたけれ。
昼はことそぎ、およすけたる姿にてもありなん。
夜はきららかに花やかなる装束いとよし。
人の気色も、夜の火影ぞよきはよく、物言ひたる声も暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。
匂ひも、ものの音も、ただ夜ぞひときはめでたき。
さして殊なることなき夜、うち更けて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。
若きどち、心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、殊にうち解けぬべき折節ぞ、褻晴なくひきつくろはまほしき。
よき男の日暮れてゆするし、女も、夜更くる程に、すべりつつ、鏡とりて顔などつくろひて出づるこそをかしけれ。