秋ですね もみじ

道に散っている落葉や虫の音など、何となく寂しさを感じさせるものです。

一方で、紅葉や名月など、見るべきものもあるので、冬ほど絶望的に荒涼としているわけでもありません。

冬なんて「春遠からじ」と励まして慰めるしかないですからね、絶望の季節です。笑

 

 枕草子 

 

秋は夕暮れ。

夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり。

まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。

日入りはてて、風の音、虫の音など、またいふべきにあらず。

 

秋は夕暮れが最高。

夕日が差して山の稜線にとても近くなっている中、カラスが巣に帰るといって三羽四羽、あるいは二羽三羽くらいで急いで飛んで行くのまでがしんみりした気分になる。

まして、雁なんかが列を成して飛んでいるのがとても小さく見えるようなのは、とっても素敵。

すっかり日が暮れて、風の音や虫の音が聞こえてくるのなんかは、改めて言うまでもない。

 

「春はあけぼの」の名文にある一節です。

春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて(早朝)。

その季節ごとに、その季節らしさがもっとも際立つ時間帯を綴った文章です。

この名文の影響は大きく「秋⇔夕暮れ」という連想の結びつきは強固だったようで、後鳥羽院の和歌に次のものがあります。

 

見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ(新古今36)

〔見渡してみると、山の麓が霞み水無瀬川が流れている。『夕暮れの風情は秋に限る』となぜ今まで思い込んでいたのだろうか。春の夕暮れもこんなに素晴らしいではないか〕

水無瀬川・・・大阪府を流れる川。川の近くに後鳥羽院の離宮があった。今は神社(水無瀬神宮)がある。

 

これは春の歌ですが、『枕草子』の「秋は夕暮れ」に引っ張られすぎていたことにハッと気づいたというもの。

ただし、水無瀬川で詠んだ歌ではなく、宮中での歌合にて「水辺の春の景色」という題で詠んだものらしいです。

 

さて、和歌集を見てみると、

 

『古今集』

 ①春上②春下③夏④秋上⑤秋下⑥冬

『後撰集』

 ①春上②春中③春下④夏⑤秋上⑥秋中⑦秋下⑧冬

『拾遺集』

 ①春②夏③秋④冬

『後拾遺集』

 ①春上②春下③夏④秋上⑤秋下⑥冬

『金葉集』

 ①春②夏③秋④冬

『詞花集』

 ①春②夏③秋④冬

『千載集』

 ①春上②春下③夏④秋上⑤秋下⑥冬

『新古今集』

 ①春上②春下③夏④秋上⑤秋下⑥冬

 

春と秋の歌が多いのが分かりますね。

『拾遺集』『金葉集』『詞花集』は春夏秋冬すべて1巻ずつですが、他は春と秋だけが2巻ずつまたは3巻ずつという構成になっています。

『後撰集』は特に春と秋の贔屓が凄いですね。

 

それくらい、春と秋は日本人の琴線に触れる季節だと言って良いのだろうと思います。

 

八代集の「秋」の部の冒頭の歌を一斉にみてみましょー。

 

 古今和歌集 秋上 

 

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)

〔秋が来た、と目にはっきりと見えるものではないが、風の音でそう気づかされたよ〕

 

何でしょう、なんか「古今集っぽいな」と思う歌です。

「こういうのでいいんだよおじさん」がいたら「こういうのでいいんだよ」って言いそうな歌。笑

僕にとっての『古今集』って「こういうのでいいんだよ」って感じなんですよね。

伝われ。笑

 

藤原敏行は『百人一首』に「住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路ひとめよくらむ」で知られる歌人です。

この「住の江」の歌はとっても好きです。

 

 古今和歌集 秋下 

 

吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ(文屋康秀)

〔吹けばたちまち秋の草木が萎れてしまうから、なるほど、山から吹き下ろす風を『あらし(荒し)』といい、またそれを『山風(嵐)』と書いているのだろう〕

 

「AだからBなのだろう」系和歌です。

ちなみに、「嵐」は古語では強風を指す言葉で、辞書には「特に山から吹き下ろす強風を指すことが多い」と書かれています。

現代の暴風雨を指す嵐とは違います。

 

なお、文屋康秀は『古今集』の選者のひとりです。

 

 後撰和歌集 秋上 

 

にはかにも風の涼しくなりぬるか秋立つ日とはむべも言ひけり(詠人不知)

〔急に風が涼しくなったことよ。立秋の日とはなるほどよく言ったものだ〕

 

詠み人知らずですが、なかなか良き歌ですね。

立秋というのはあまり気にして生きていませんが、9月になると風が急に少し冷ややかになるのは感じます。

 

 後撰和歌集 秋中 

 

秋霧の立ちぬるときはくらぶ山おぼつかなくぞ見えわたりける(紀貫之)

〔秋霧が立ちこめた時は、ただでさえ暗い暗部山が全体的にますますはっきりせずぼんやりと見えることだ〕

 

貫之にいさんの歌です。

「くらぶ山」というのは、鞍馬山のことだとされています。

単に暗い山を指す、という説もあるとか。

 

 後撰和歌集 秋下 

 

藤袴きる人なみやたちながら時雨の雨にぬらしそめつる(詠人不知)

〔藤袴は切る人がいないからだろうか。立ったまま時雨のあめにその身を濡らしはじめたことよ〕

 

袴・きる(着る)・たち(裁ち)・そめ(染め) という衣装にまつわる縁語が使われています。

この歌は「や」の解釈がよく分からず、とりあえず二句切れとして疑問にしておきました。

 

 拾遺和歌集 秋 

 

夏衣まだひとへなるうたたねに心して吹け秋の初風(安法法師)

〔私はまだ夏の単衣の衣を着たままうたた寝をしているのだから、よくよく気を配って吹いてくれ。秋の初風よ〕

 

秋の歌だというのに「夏衣」と詠み始める意外性。

高校の教科書に載っていることもある、秋のキリギリスを詠めと言われて「青柳の」と春の風物詩から詠み始める話を思い起こさせます。

 

安法あんぽう法師というのは「源融」の子孫らしいです。

 

 後拾遺和歌集 秋上 

 

うちつけに袂涼しくおぼゆるは衣に秋はきたるなりけり(詠人不知)

〔突然に袂が涼しく感じられたということは、衣にも秋の季節がやってきたのだなあ〕

 

有名な歌です。

きたるに「着」がかかります。

袂と着が衣の縁語になります。

 

 後拾遺和歌集 秋下 

 

唐衣長き夜すがら打つ声にわれさへ寝でも明かしつるかな(源資綱)

〔秋の長い夜の間中、砧で衣を打つ音が鳴り響き、その何とも言えない切なさに、私までが寝ずに夜を明かしてしまったなあ〕

 

衣を打つのは光沢を出したり、布を柔らかくしたりするために行っていた技法です。

衣を作るのは秋だけではないはずですが、この風景は秋の代表的な詩情のひとつとなっています。

どこかで読んだ記憶があるのですが、布を叩くことによって目が潰れて風を通しにくくなる、という解説。

いま改めて調べてみてもそう解説しているものは見当たらんなあ。

 

 金葉和歌集 秋 

 

とことはに吹く夕暮れの風なれど秋立つ日こそ涼しかりけれ(藤原公実)

〔いついかなる時も吹く夕暮れの風ではあるが、立秋の日に吹くそれはやはり涼しいことだ〕

 

君住まば問はましものを津の国の生田の森の秋の初風(清胤)

〔もしあなたが住んでいるなら尋ねてみたかったのになあ。津の国の生田の森に吹く秋風はいかがですか、と〕

 

なんで二首もあんねん えー ですよね。

 

『金葉和歌集』の選者は源俊頼で、撰集を命じたのは白河院です。

完成して最初に白河院に奏覧したのが「初度本」で、これはやり直しを命じられます。

しゃーないから改訂して、二度目に奏覧したのが「二度本」で、これまた更なるやり直しを命じられます。

で、再度改訂して三度目に奏覧したのが「三奏本」でこれが最終版です。

ところが、最終形態である「三奏本」はなぜか人目にほとんど触れないまま宮中に秘蔵され、世間に出回ったのは「二度本」でした。

Wikipedia調べ

「初度本」は春・夏・秋・冬・賀の五巻しかなく、歌数も470という少なさ。

白河院は「てんめえ、舐めとんかムキー」とブチ切れたのかもしれません。笑

 

「二度本」では、恋上・恋下・雑上・雑下を加え、計九巻に増量、歌数は665となりました。

 

で、「初度本」と「二度本」の秋の部の冒頭は藤原公実の「とことはに~」で、「三奏本」では清胤の「君住まば~」が冒頭に変わり、「とことはに~」はその次に置かれているんですね。

 

 詞花和歌集 秋 

 

山城の鳥羽田の面を見渡せばほのかに今朝ぞ秋風は吹く(曾禰好忠)

〔山城国の鳥羽の田を広く見渡してみると、かすかに今朝は秋風が吹くことだ〕

 

秋風を詠んだものですが、涼しさを肌で感じたと詠むのではなく、視覚的に秋風を感じている歌です。

詠者の曾禰好忠は、偏狭な性格・自尊心が高く・斬新な歌風、というとことから異端児という扱いで存命中はあまり評価されて折らず、後世で評価が高まったそう。

結果『詞花集』では秋の冒頭に採られているわけですからね。

 

ちなみに、『金葉集』三奏本で秋の冒頭に置かれていた、清胤の「君住まば~」は『詞花集』で秋の部の2番目に置かれています。

 

 千載和歌集 秋上 

 

秋来ぬと聞きつるからにわが宿の荻の葉風は吹きかはるらん(侍従乳母)

〔秋が来たと聞いたからには、私の家の荻の葉に吹きつける風もその吹き方も変わるだろう〕

 

荻というのはススキのような植物で、秋になって風が吹きつけると音を立てて秋の到来を告げるものとされてきました。

 

後撰和歌集に「春立つと聞きつるからに春日山消えあへぬ雪の花と見ゆらむ」という凡河内躬恒の歌があり、その本歌取りだと思います。

 

 千載和歌集 秋下 

 

はるかなる唐土までも行くものは秋の寝覚めの心なりけり(大弐三位)

〔遙かなる異国の地である唐土までも行くものとは、秋に寝覚めしたまま眠りに戻れない心であったのだなあ〕

 

夜中に寝覚めたまま眠りに戻れない心を、唐土まで飛んで行ってしまったみたいで戻ってこない、と言っているのだと思います。

 

大弐三位とは紫式部の娘で、母と同じく藤原彰子に仕えました。

 

 新古今和歌集 秋上 

 

神名備のみむろの山のくずかづらうら吹きかへす秋は来にけり(大伴家持)

〔神が鎮座ましますみむろの山に生い茂る葛かづら、その葉を裏返して吹く秋がやって来たことよ〕

 

ここで万葉歌人の登場です。

「みむろの山」というのは、三輪山または三室山を指します。

朴訥とした万葉の風情もまた良いですね。

引き締まった感じがします。

 

 新古今和歌集 秋下 

 

下紅葉かつ散る山の夕しぐれ濡れてやひとりしかの鳴くらん(藤原家隆)

〔山の夕暮れ時、紅葉した下葉が時雨に打たれて次から次へと散ってゆく。そんな中、孤独に耐えかねた牡鹿が雨に濡れながら妻を求めて鳴いているのだろうか〕

 

たった三十一文字で、こんなに寂寥感を凝縮したような侘しい詩がよく書けますな 悲しい

凄すぎる。

 

藤原家隆は『新古今和歌集』の選者のひとりです。

 

紅葉と鹿の組み合わせと言えば、百人一首の「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」がまず思い出されます。

猿丸太夫というよく分からん人の歌ですが、奈良時代くらいの人です。

 

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さて、八代集の秋の部の冒頭の歌をすべて見てきました。

上(中)下と複数巻ある場合は、中・下の冒頭歌も見ましたが、「秋のトップバッター」である上巻の冒頭だけを見ていくと、どれも「秋風」を詠んだものとなっています。

 

良い歌を好きに配置する、というものではなくて、季節の歌はその季節の移り変わりが感じられるように配列しているので、初秋からだんだん晩秋へと向かっていくことになります。

 

すると当然、夏の終わりから秋へと移り変わったその瞬間を詠んだものが巻のトップに来ることになります。

そう思って改めて考えると「ああ、夏が終わって秋なんだ」と感じる瞬間を切り取った歌の代表はすべて秋風なんですね。

 

春の冒頭は、立春だったり雪だったり霞だったりします。

夏の冒頭は、ホトトギスか衣替え(夏衣)。

冬の冒頭は、氷だったり時雨だったり紅葉だったり。

 

夏もけっこう偏っていて、『古今集』だけがホトトギスで、それ以外は衣替えでした。

でも、秋はひとつの例外もなく秋風。

 

その中でも、『拾遺集』は秋風そのものを詠んだものではなく、まだ夏の衣を着ているからあまり涼しく吹かないでくれよ、という変わった趣向で面白いと思いました。

 


 

秋といえば「三夕さんせきの歌」を取り上げないわけにはいきません。

 

 三夕の歌 

 

『新古今和歌集』にある三首の歌です。

 

寂しさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ(寂蓮)

〔寂しさというものは、何か特別な色によって感じられるというわけではないのだな。常緑樹に覆われて紅葉もない緑の山の秋の夕暮れよ〕

心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)

〔風流を解する心もない私の身にも、しみじみとした情趣が感じられるものだな。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れよ〕

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(定家)

〔見渡してみると、春に咲く桜の花もなければ秋の美しい紅葉もないことだ。海辺の苫屋の秋の夕暮れよ〕

 

『新古今和歌集』361番~363番の連続するこの三首が「三夕の歌」です。

 

いずれも第五句が「秋の夕暮れ」で終わっていることから「三夕」と名付けられていますが、いつ誰がそう呼び始めたのかは定かではないようです。

 

皆さんはどれが好きですか?

西行が人気なのかもしれませんが、僕は寂蓮の歌が好きですね。

 

目に見えるものではなく、空気感とでも言いましょうか、全体的な雰囲気から感じられる秋の寂しさを歌った寂蓮。

あたしゃ、これが一番好きですね。

 

ちなみに『新古今和歌集』の364番「三夕の歌」の次に置かれているのが次の歌です。

 

たへてやは思ひありともいかがせむ葎の宿の秋の夕暮れ(飛鳥井雅経)

〔耐えることができようか、いやできはしない。恋しい思いがあったとしてもどうしようもない。葎がはびこる宿の秋の夕暮れは〕

 

この歌も第五句が「秋の夕暮れ」で終わっていますが、これを前の三首と併せて「四夕の歌」にはなりません。

 

訳を見て分かるとおり、「三夕の歌」とは趣向がまったく異なります。

「三夕の歌」では、秋の夕暮れそのものから感じられる寂寥感をテーマとして詠んでいるのに対し、この歌はかなわぬ恋の悲しさをいっそう引き立たせるものとして、秋の夕暮れが持ち出されています。

でも、「恋」ではなく「秋」の部に入っている歌なんですよね。

 

ではでは、長くなったので今日はこの辺で。

 

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