前回の続きです。
さて、腹が満たされてひもじさも失せた。
力も湧いて生き返った心地がする。
「とんでもないことをしてしまったことよ」と思って泣いていたところに、多くの人がやって来る声がする。
聞くと、
「この寺に籠もっていた聖はどうおなりになったことだろうか。人が通ってきた跡もない。召し上がるものもなかろう。人の気配がないということは、もしやお亡くなりになってしまったのだろうか」
と口々に言う声がする。
「この肉を食った痕跡をどうにかして隠そう」などと思うが、どうしようもない。
「まだ食べ残したものが鍋にあるのも見苦しい」などと思ううちに、人々が入ってきた。
「どうやって日々をお過ごしになられたのか」
などと辺りを見回すと、鍋に檜の切れ端を入れて煮て食べていた。
「これは何と、いくら食べる物がないからといって、誰が木など食べるものか」
と言ってたいそう気の毒がっているうちに、人々がふと仏像を拝見したところ、左右の股を削り取ったあとが新しくあった。
「これはこの聖が食べたのだ」と言って、
「ひどく呆れたことをなさった聖だなあ。同じ木を切って食うならば、柱でも削って食えばよいものを。どうして仏像を傷つけなさったのでしょうか」と言う。
驚いてこの聖が仏像を拝見したところ、人々が言ったとおりである。
「それでは、さっきの鹿は仏様が姿を変えて現れて、お助けくださったのだなあ」と思って、起こった出来事を人々に語ると、みな感動して悲しんでいたが、その時に法師は泣きながら仏像の前に参上して申し上げた。
「もしも、先ほどのことが仏様のなさったことであるなら、もとの通りにおなりくださいませ」
と何度も何度も申し上げたところ、人々が見ている前で仏像は完全に元通りになった。
こういうわけで、この寺を「成合寺」と申し上げるのです。
観音様の御霊験はこればかりではございません。
これでこの話はおしまいです。
なお、今回は鎌倉時代の説話集『古本説話集』からとりましたが、平安時代の説話集『今昔物語集』にも同様の話が掲載されています。
もちろん、と威張ることでもありませんが、原本を見たことはありません。
が、手元にある原文を見ると法師が食べた肉(実は木だった)について『古本説話集』では「鹿」と書いてあり、『今昔物語集』では「猪」と書いてあります。
漢字表記はそうなのですが、どちらも「しし」と読むそうです。
とすると、それは当て字(?)的なもので、「しし=肉」です。
肉
音:ニク/訓:しし
これ、意外と勘違いしている人が多いはず。
「ニク」を訓読みだと思っている人は少なくないと思います。
三省堂詳説古語辞典では「しし」に「獣」という字を当てて次のように説明しています。
食用の獣けもの。猪いのししや鹿しか。とくに区別する場合は、「ゐのしし」「かのしし」といった。
「猪」はもともとは単に「ゐ」と呼んでいました。
勘の良い方はお分かりでしょう。
そう、「イノシシ」とは「猪ゐの肉しし」が語源なのですね。
同じように「鹿」はもともと単に「か」と呼んでいました。
今でも「鹿の子模様」という言い方で残っていますが、「鹿かの肉しし」という言葉は一般には残っていません。
ちなみに、超古くは「シカ」は雄鹿のことで、牝鹿のことは「メカ」と呼んでいたそうな。
ところで、寺の名の由来として語られた今回のエピソードですが、もう少し解説しないと分かりにくいですよね。
古語辞典で「成り合ふ」という動詞を引いてみましょう。
●ベネッセ古語辞典
①しあがる。完成する。
②成熟する。一人前になる。
③一つになる。いっしょになる。また、気脈を通じる。
●岩波古語辞典
①よくととのった姿になる。申し分なく出来上がる。
②一つになる。一緒になる。
うーん、イマイチしっくりきません。笑
では、成相寺のホームページを見てみましょう。
すると、今回紹介したエピソードが掲載されており、その最後に「此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました」と書かれていました。
つまり、辞書の①の意味「仕上がる・完成する・よく出来上がる」で、「こうなりたい」と願えばその通りに仕上がる、ということからきているようです。
そんな霊験あらたかな成相寺の御本尊は「聖観音菩薩」です。
そうそう、観音様にも種類があります。
仏教の世界では、極楽浄土の下に六つの世界が存在していて、魂はその六つの世界の中で輪廻を繰り返すとされます。
その六つの世界を「六道りくどう/ろくどう」と言います。
観音様は、その六道で苦しむものを救ってくれるとされ、六道それぞれに担当の観音様がおられます。
〈三善道〉
天 道:如意輪観音
人間道:不空羂索ふくうけんさく観音/准胝じゅんでい観音
修羅道:十一面観音
〈三悪道〉
畜生道:馬頭観音
餓鬼道:千手観音
地獄道:聖しょう観音
人間道だけ観音様が2尊あるのは、宗派による違いです。
天台宗の系統では不空羂索観音とされ、真言宗の系統では准胝観音とされます。
担当が決まっているとはいえ、他の世界のものは救わないということはないでしょう。
そうでなければ、日本中の寺が不空羂索観音か准胝観音ばかりを御本尊としそうなものですが、実際は違います。
今回のお話でも、飢えに苦しむ法師を助けたのは(おそらく)聖観音。
成相寺のホームページによると、御本尊の聖観音像は平安時代のものらしいので、1000年以上前から成相寺には聖観音像が祀られていたようですから。
(原文)
さて、物の欲しさも失せぬ。
力もつきて人心地おぼゆ。
「あさましきわざをもしつるかな」と思ひて、泣く泣くゐたるほどに、人々あまた来る音す。
聞けば、
「この寺にこもりたりし聖は、いかになり給ひにけん。人通ひたる跡もなし。参り物もあらじ。人気なきは、もし死に給ひにけるか」と、口々に言ふ音す。
「この肉を食ひたる跡をいかでひき隠さん」など思へど、すべき方なし。
「まだ食ひ残して鍋にあるも見苦し」など思ふほどに、人々入り来ぬ。
「いかにしてか日ごろおはしつる」
など、廻りを見れば、鍋に檜の切れを入れて煮食ひたり。
「これは、食ひ物なしと言ひながら、木をいかなる人か食ふ」
と言ひて、いみじくあはれがるに、人々仏を見奉れば、左右の股を新しく彫り取りたり。
「これは、この聖の食ひたるなり」とて、
「いとあさましきわざし給へる聖かな。同じ木を切り食ふものならば、柱をも割り食ひてんものを。など仏を損ひ給ひけん」と言ふ。
驚きてこの聖見奉れば、人々言ふがごとし。
「さは、ありつる鹿は仏の験じ給へるにこそありけれ」と思ひて、ありつるやうを人々に語れば、あはれがり悲しみあひたりけるほどに、法師、泣く泣く仏の御前に参りて申す。
「もし仏のし給へることならば、もとの様にならせ給ひね。」
とかへすがへす申しければ、人々見る前に、もとのやうになり満ちにけり。
されば、この寺をば成合と申し侍るなり。
観音の御しるし、これのみにおはしまさず。