『伊勢物語』の第82段です。
桜に関する有名な和歌の贈答があります。
桜が散るのを見て嘆く歌を詠んだ在原業平に対して、「桜は散るからこそ良いんだよ」という歌が返ってくる。
桜が散る写真はスマホの写真フォルダにありませんでした。
生活圏で見られる桜は、今年は既に散りに散っておりますが、写真に撮るような綺麗な感じでは最早なく。笑
さておき、桜って確かに咲いたと思ったらすぐに雨が降って散っていきますよね。
春に三日の晴れなし
昔から言われることですが、春の天気はそもそも変わりやすいものです。
さて、現在、桜と言ったらソメイヨシノが主流で、平安時代は桜といったらヤマザクラだったとのこと。
ソメイヨシノは江戸時代に品種改良で生まれたものなんですね。
ヤマザクラは簡単には散らなかった。
「すぐに散る桜のはかなさ」を思い描いてた平安貴族の想像を江戸時代に品種改良で具現化したのがソメイヨシノだ。
という話をどこかで誰かから聞いたことがあったのですが、Wikipediaを見てみると、それは間違いで「ヤマザクラの方がむしろソメイヨシノよりも早く散る」と書かれていました。
工エエェェェヽ(゚Д゚;)ノ゙ェェェエエ工
そりゃないぜ、ルパン
ま、いっか。笑
とにかく本文を見てみましょう。
昔、惟喬親王と申し上げる親王がいらっしゃった。
山崎の向こうの水無瀬という所に離宮があった。
毎年、桜の花盛りになるとその宮にお出掛けになった。
その時、右馬の頭だった男をいつもお供に連れていらっしゃった。
かなり昔のことなので、その男の名は忘れてしまった。
一行は、鷹狩りはあまり熱心にやらず、酒ばかり呑んでは和歌を作っていた。
今ちょうど狩りをする交野の渚の邸、またその水無瀬の離宮の桜の見事さは格別だった。
その木のもとに座り、枝を折って簪にして頭に挿し、身分の上下に関わらず皆で歌を詠んだ。
その時に、件の右馬の頭が詠んだ歌。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
〔この世にもし桜というものがなかったら、春における人の心はどんなにか穏やかだろうに〕
これを聞いてある人が詠んだ歌。
散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき
〔散るからこそ、ますます桜はすばらしいというものだ。この世にあって永遠のものなど何があろうか〕
といって、その木のもとを立ち去って帰るうちに、日が暮れてしまった。
お供の人が酒を持たせて野から出てきた。
この酒を呑んでしまおうというわけで、良い場所を探しまわっていると、天の河という所にたどり着いた。
右馬の頭が親王にお酒を差し上げようとしたところ、
「交野で鷹狩りをして、天の河のほとりについたということを歌に詠んでから盃を差し出せ」
と親王がおっしゃったので、例の馬の頭が詠んで献上した。
狩りくらしたなばたつめに宿からむ天の河原にわれは来にけり
〔日が暮れるまで狩りをして過ごしたので今夜は織姫さまに宿を借りるとしよう。天の河の川原に私たちは来ていたよ〕
親王はこの歌を何度も口ずさんで、返歌はなさらなかった。
お供にお仕えしていた紀有常が代わりに詠んだ返歌。
ひととせにひとたび来ます君待てば宿かす人もあらじとぞ思ふ
〔織姫さまは、一年に一度しかいらっしゃらないお方を待っているのだから、この天の河の川原に宿を貸してくれる人はいるまいと思うが〕
こうして水無瀬の離宮にお帰りになった。
夜が更けるまで酒を呑んで話をし、惟喬親王が酔って御寝所に入ろうとしなさる。
ちょうど十一日の月も隠れようとするところだったので、例によって右馬の頭がこう詠んだ。
飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端にげて入れずもあらなむ
〔まだまだ飽き足らないというのにもう月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れずにいてほしいものだ。~親王様がこんなに早くお休みになるのは残念です~〕
また親王に代わって紀有常が返歌をした。
おしなべて峰も平らになりななむ山の端なくは月も入らじを
〔親王様の早いお休みが残念なのはその通りだが、『山の端が逃げる』より、どこの山の峰もみな一様に平らになってほしいものだ。山の端がなければ月も隠れないだろう〕
この章段には6首の和歌があり、どれも最初に右馬の頭(在原業平)が詠んで、誰かが返歌を詠むという形になっています。
最初の返歌は詠み人知らず、その後の2首の返歌は紀有常が詠んだものとのことです。
最初の贈答歌が激しく有名ですね。
その「散ればこそ」という超有名歌が詠み人知らずなんですよね~。
ただ有名というだけでなく、日本人のメンタリティを象徴しているかのような歌。
桜を題材としているので、古文によくある「露」「泡」「白波」を題材とする一般的な無常観とは一線を画した、「散り際の美学」に通じるものがあるようです。
『電車の二人』 モーニング娘。
ちょっと古いですが、モーニング娘。の4thアルバムに収録されている『電車の二人』。
この歌の最初の方に「ぱっと咲いて散ってもいいわ」(作詞:つんく♂)と出てきます。
もちろん、この歌詞が「散ればこそ」の影響を受けていると言いたいわけではありませんし、ニュアンスはちょっと違います。
他にも色々ありそうですが、J-Popにあまり詳しくないので。
とにかく、直接影響を受けずにそういう言葉が出てくるというのは、心の深いところでこのような歌に詠まれた美的感覚が生きているということでしょう。
さて、紀有常ですが、以前書いた「身を知る雨」の記事でも系図の中で登場しているのですが、今回の惟喬これたか親王も含めた系図を改めて作成しました。
今回、藤原敏行はまったく関係ありませんが、「身を知る雨」に登場していたので入れておきました。
●惟喬親王・・・844年~897年
●紀有常・・・815年~877年
●在原業平・・・825年~880年
Wikipediaによると、在原業平が右馬の頭だったのは、865年~(877年?)らしいです。
よって、この物語は(創作であるにせよ)惟喬親王20代,業平40代,有常50代というイメージで良いようです。
なお、この話に出てくる「天の河」ですが、大阪府枚方市にある川で、古くから「七夕伝説」と結びついて現在に至るようです。
(原文)
むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。
山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。
年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。
その時、右の馬の頭なりける人を常に率ておはしましけり。
時世へて久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。
狩はねむごとにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。
今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。
その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、上中下、みな歌詠みけり。
右馬の頭なりける人の詠める。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
となむ詠みたりける。また人の歌、
散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき
とて、その木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ。
御供なる人、酒を持たせて野より出で来たり。
この酒を飲みてむとて、よき所をもとめ行くに、天の河といふ所にいたりぬ。
親王に、右馬の頭、大御酒まゐる。
親王ののたまひける、
「交野を狩りて、天の河のほとりにいたるを題にて歌詠みて、盃はさせ」
とのたまうければ、かの右馬の頭詠みて奉りける。
狩りくらしたなばたつめに宿からむ天の河原にわれは来にけり
親王、歌をかへすがへす誦じ給うて、返しえし給はず。
紀有常、御供に仕うまつれり。
それが返し、
ひととせにひとたび来ます君待てば宿かす人もあらじとぞ思ふ
帰りて、宮に入らせ給ひぬ。
夜ふくるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。
十一日の月も隠れなむとすれば、かの右馬の頭の詠める、
飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端にげて入れずもあらなむ
親王にかはり奉りて、紀有常、
おしなべて峰も平らになりななむ山の端なくは月も入らじを