最近少しだけ寒さを取り戻してきましたが、先週は暖かかったですね
11月としては記録的な暖かさでした。
小春日和、を通り越してもはや室内なら半袖Tシャツ1枚で過ごせるほど。
秋なのに春めいている、こんな気候にピッタリ?なお話を。
『伊勢物語』の第20段です。
昔、男が大和の国にいる女を見て、口説いて結ばれた。
それからしばらく経って、宮仕えをする人だったから都へ帰らなければならず、その道中で、三月ごろだというのに、紅葉したように色変わりした風情ある楓の枝を折って、女の所に道すがら歌を添えて送った。
君がため手折れる枝は春ながらかくこそ秋のもみぢしにけれ
〔あなたのために折り取ったこの枝は、春でありながらこうして秋のように紅葉していることです。―― 私はこの楓とは違って心変わりすることなどありませんよ ――〕
といって送ったところ、返事は男が京に帰り着いてから届けてきた。
いつのまにうつろふ色のつきぬらむ君が里には春なかるらし
〔いつの間に色変わりしたのでしょう。あなたの暮らす所には春がないらしいですね。―― 春がない、ということは秋(飽き)ばかりで、あなたはもう私から心変わりしているのでしょう ――〕
いと短し
春なのに秋のように楓の葉が色変わりしている、という話でした。
秋なのに春めいている先週の気候とは逆でしたね。笑
これは数年前の5月に京都の毘沙門堂で撮った若もみじです。
写真を出すまでもありませんが、春に紅葉するわけがない。
ので、この文にある「三月の楓の紅葉」は病葉(わくらば)である、と角川文庫版には説明されてします。
本文には「風情ある」と書かれているのですが、果たして病葉が風情ありげに変色することがあるのでしょうか?
分かりませんが、まあ確かに3月に紅葉するわけもないので、特殊なものなのだろうと思います。
突然変異の可能性もあるのかしら?
と思って色々と検索していたら、「春先の若葉も薄赤く色づく」と書いている方がいらっしゃいました。
へえ、そんなことがあるんだ、と思いましたが、まあそれはさておき。
女の返歌が良いですね
特に下の句の「君が里には春なかるらし」が実に良い
春夏冬二升五合(商いますます繁盛)
に通ずるものがあるような無いような。
春に色変わりした楓の枝を送ってきた男に対し、「あなたの里には春がないんですね」と詠むだけで、「秋(=飽き)ばっかりなのでしょう」という意味を読み取らせる。
もちろん男の気持ちも分かっており、この程度のことを言ってみたところで男が怒ったりしないことも分かっているわけです。
これは素晴らしい。
対して、男の方の歌は少し考え所です。
「秋」に「飽き」が掛かるのはよくあることですが、男が「お前に飽きた」と言うのは展開が早すぎ・唐突すぎます。
『伊勢物語』は第21段「世の中を憂しと思ひて出でていなむと思ひて」とか、第94段「いかがありけむ、その男住まずなりにけり」とか、不仲になって通わなくなるような場合には、分かりやすく書かれるので、この章段の場合は男が女に飽きて心変わりしたというわけではありません。
ではこの歌に裏の意味を何も読み取らずにそのまま表面上の意味だけとするのか、というと、それは在原業平の歌としては平凡すぎるようにも思えます。
※表面上の意味しか汲み取らない解釈も多く存在しています。
そこで、「見てごらん、春なのに秋みたいに紅葉して色が変わっている楓があるよ。私はこの楓とは違って心変わりしてあなたに飽きることなどありませんよ」という感じで取るのが良いのではないかと思います。
この解釈は、「枝は」の『は』が対比を作っている、と考えることで成立します。
簡単に解説すると、
今日は晴れたね。
これだけで、昨日は晴れていなかった、ということが読み取れます。
この「は」という助詞の持つ対比の機能をこの歌に持ち込めば、「枝は移ろっているが、私の心は移ろうことがない」という風にとることができます。
上の訳もそのような観点から訳しました。
なお、「私の心もこんな風に深くあなた一色に染まってしまっているのですよ」という感じの解釈もあるようです。
本居宣長もそうだったとか?
「秋」の掛詞はあまり気にせず、それよりも「色が変わる」という現象そのものに重きを置いた解釈ですね。
まあ、何にせよ、この章段では女の歌の方に軍配が上がることでしょう
(原文)
昔、をとこ、大和にある女を見て、よばひてあひにけり。
さてほど経て、宮仕へする人なりければ、かへり来る道に、三月ばかりに、かへでのもみぢの、いとおもしろきを折りて、女のもとに道よりいひやる。
君がため手折れる枝は春ながらかくこそ秋のもみぢしにけれ
とてやりたりければ、かへりごとは、京に来着きてなむ持てきたりける。
いつのまにうつろふ色のつきぬらむ君が里には春なかるらし