清少納言が初めて中宮定子のもとに出仕したころの回想録です。

面白い話ではないのですが、清少納言の生き生きとした筆致の素晴らしさが光ります。

三巻本『枕草子』の第177段あたりです。

長い章段なので全10回に分けて紹介していきます。

 

中宮様のもとに初めて参上したころ、何となくきまり悪いことばかりが数え切れないほどあって、涙もこぼれそうだったから、いつも夜に参上しては、隠れるように三尺の御几帳の後ろに控えていたの。
中宮様は絵なんかを取り出してお見せくださるのだけれど、私は気恥ずかしくて手も差し出せなくてつらかったわ。
そんな私に、これはああでこうで、それがねあれがね、なんて色々とお話しくださるの。
それにしても、灯りの位置が低いものだから、私の髪の毛の筋なんかも、昼間よりもかえってありありと見えてきまり悪いかったけど、我慢するしかないじゃない。
とても寒い頃だったから、差し出しなさった中宮様の御手がちょっと見えたのだけれど、ほのかに赤らんでいたのが、まるで淡い色をした紅梅のようで、とても美しくて最高に素敵だったわ
恋の矢
宮廷世界を知らなかった庶民感覚の私は、この世にこんな方がいらっしゃったとは、とただ驚くばかりで、うっとり見つめ申し上げずにはいられなかったの。


(原文)

宮にはじめてまゐりたるころ、物の恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべかりければ、夜々参りて、三尺の御几帳のうしろにさぶらふに、絵など取り出でて見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじう、わりなし。
これは、とありかかり、それがかれが、などのたまはす。
高坏にまゐらせたる御殿油なれば、髪の筋なども、なかなか昼よりも顕証に見えてまばゆけれど、念じて見などす。
いとつめたきころなれば、さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、かぎりなくめでたしと、見知らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、おどろかるるまでぞ、まもりまゐらする。


【語釈】

●宮
もちろん中宮定子のこと。

●三尺の御几帳
「几帳」とは木の骨組みに布を掛けた、ポータブルな衝立。三尺は約90cmで、几帳の高さを示す。四尺(ししゃく)の几帳もある。

●手にてもえさし出づまじう、わりなし
「え~打消」で不可能を表し、「手さえも差し出すことができず」となる。主語は筆者自身。「わりなし」は①道理に合わない②つらいなどの意味を持つ。

●高坏にまゐらせたる御殿油
高坏たかつきは食べ物を盛る一本足の器。これを逆さまにして御殿油おんとなぶらすなわち灯火をともす。普通より光源が低くなり、手元が明るくなる。自然、座って絵を覗き込む姿勢なら人間の顔や髪などもはっきりと照らし出される。

●髪の筋なども、なかなか昼よりも顕証に見えて
髪に尊敬の「御」がついていないので、ここでは筆者の髪をいう。副詞「なかなか」はかえっての意味。「顕証に見えて」は、はっきり見えて。

●念じて
サ変動詞「念ず」は我慢するの意味。

●里人心地
「里人」は宮仕えせずにいる人のこと。まだそんな気分でいる筆者自身の心境を言う。


自信満々にシャレの効いた文句の応酬をする清少納言の姿はありません。

想像を絶する中宮定子の美しさの前に、ただ怯えている初々しい清少納言なのです。

 

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