こんにちは。

 

昨年の今日、主治医から「子宮内膜間質肉腫」と告知を受けました。

 

退院後から告知を受けるまで、告知をうけたときの心境、その後ホルモン療法をしたこと、2度目の手術で両側卵巣を摘出したこと等については、今後、順に書き記していきたいと思っています。

 

今日は、告知をうけてちょうど一年が経った今、思っていることを書きます。

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どうして私が、がん(肉腫)になったんだろう。

一体、いつから、がん(肉腫)だったんだろう。

どうして私が。

 

自問自答の日々。

私は、摘出した子宮や卵巣の写真を撮って、と夫にお願いをしていた。

初めて見る自分の子宮。

子宮って本当に小さな臓器。

この臓器がどうして、がん(肉腫)になっちゃったのか。

 

考えても仕方がないのだけれど、つい最近までずっと「どうして私が?なんで私が?」と考えていた。

 

でも、最近、本当につい最近。

ようやく自分なりの見解を持つことができた。

それは、がん細胞が今まで待っていてくれたのではないか、ということ。

 

もし10年前の子宮頸がん検診で、腫瘍が見つかっていて子宮を摘出していたならば、私は息子を出産できていない。夫と結婚すらできなかったかもしれない。


私は中学生くらいの時から、生理の期間が長かった。だから、もしかしたら、ずっとずっと前からがん細胞を持っていたのかもしれない。

それが、目に見える大きさとなって現れたのが、息子が4歳のときだっただけではないか。

 

がん細胞自身が、もうこれ以上、子宮の中で「かくれんぼができない」と言ったのではないか。

 

がん細胞自身が、息子を出産するまで、そして息子が幼稚園生になるまで、増殖することを待っていてくれたのではないか。


がん細胞自身が「産んで育てられる時間」を私にくれたのではないか。

 

そして、東京の大学病院に対しても。

今まで「どうして2年数カ月も見つけられなかったのか。どうして一番初めのMRIのときに造影剤を入れなかったのか。」と。

 

でも、東京の大学病院が見つけられなかったおかげで、今の主治医とも病院とも出会えたのだ。

 

私が考えていることは、何ら医学的根拠はない。

 

「どうして私が、がん(肉腫)になったのか?」ではなく「息子が小学生になるまで、それに夫の転勤で大阪に来るまで、がん(肉腫)細胞自身が、増殖するのを待っていてくれたのだ」と思うと気がラクになった。

 

がん(肉腫)細胞自身が、耐えて踏みとどまってくれたから、私は息子に出会えたのだ。


正直なことを言えば、どうして、どうして、と思うことは今でもある。

でも見つからない答えを追い求めて疲弊するよりも、私の子宮にあったがん(肉腫)細胞はとても「いい子」だったから「息子に会わせてくれたのだ。」と思うことにしたい。


息子に会わせてもらったのだから、多くの人のおかげで生かしてもらったのだから、私は今を精一杯生きることにする。

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あの告知の日から一年。

一年前は、今日という日が想像もできなかったけど、幸運にも生きている。

 

次回は、日常生活で、術後にできることと、難しかったことをまとめたいと思います。

 

おかげさまで、今日も私は元気です。