3月11日。。
あの日は、妹の家から(泊まってた。。)の帰りでした。
帰りがてら、会社の近所に寄り同僚とランチをして。。エレベーターの関係で住吉駅まで少し歩き、おむつを替え。。こんなささいな時間が、タイミングが良い方に回ってくれた?と過ぎた時に思いました。
地震が起きた時、渋谷の地下鉄乗り換えでエレベーターに乗り込む直前でした。
足元がふらっとして、なんだっ??
ゆれてる?
地下なので、揺れるぶら下がり物も、落ちてくる物もなく、音も静かに、ゆっさゆっさと揺れてるだけ。。
長く。。この先、どんな状況になるのか未知の揺れに、息子のバギィにおおい被さり、、(天井しか落ちてくる物はないが、、したら被さっても二人ともダメなのに。。)
『大丈夫っ!母がついているからねっ、大丈夫っだから』を繰り返してました。
もち息子は、我関せず。。恐さも何もなく。。いつもの機嫌の良い表情。。その表情に、支えられながら。。また、これを守らないと!!と奮い立たされグーひとつ目の揺れを越えました。
その後ホームに行ったり、停車している電車に乗ってみたり。。妹家は店で火を使っているから、それが心配でっ。。連絡はつかない。。
何度かの揺れをへて
地下が安全か??なので皆さん外に!!と。それまでの副都心の構内放送は落ち着きがあり、とても安心感がありました。それにすがっていたかったが、そーもいかないよーで。。
バギィに大荷物を乗せたまま、エレベーターは使えず。。エスカレーターは動いていたけど。。ちと怖い。。けど駅員さんは誘導で忙しそう。。
頑張ってエスカレーターで地上に出ました。。
渋谷は、人だかりでした。。
どうしよう。。旦那の職場が近くなのですが、連絡はつかない。。メールだけは打っておく『いまっ渋谷です。』
しばし、ふらついてたけど寒くなってくる。。どうしよう。。
そこで、こどもの城を思いだしました。こどもの城だもの。赤ちゃんにも優しかろう。。ロビーで一段落出来たら。。と。
渋谷から表参道に向かい歩きだしました。
この時、東北がどんな状況になってるのか知りもせず。。ショック!
こどもの城に着き、バギィの親子連れが、居ました。。一安心です。
そこにある大型スクリーンで東北の方が震源地なのを知りました。
津波の映像、画面でみると、ゆったり流れてる感じで、タンクローリの燃えてる様。。の方に驚異を感じました。。
あの津波の影にどれだけの犠牲が隠れて映しだされてたなんて感じとれずに。。
旦那に『こどもの城に移動しました』とメール。
夕方になってくると、息子がバギィにいい加減飽きてグズリ始めました、、抱っこしか嫌だと。。おんぶひもは持ってなく、公衆電話に列ぶのも、オムツを替えるのもトイレに行くのも抱えながらで大変、、ミルクを作るのも。。
幸い泊まりの帰りで食料もオムツも余分に持ってて心配はなかったんです。
日も暮れ始めた頃、、旦那からメール『渋谷。。何処にいる??』時間差でメールが着いてたみたいで、、渋谷を捜してくれてたみたい。。
公衆電話は家や妹たちとも連絡がつき、、
無事を確認。
何時だっただろう。。地震発生から、、やっと旦那と逢う事が出来ました。
ロビーから旦那の姿を見つけた時、、泣きそうになりました。
近づいくる旦那に、泣き出しそうになりました。。
でも、旦那の方が涙がちらりっ。。私は我慢できました。。
やっとトイレに行けました。。
こどもの城は、とても親切でした。。正解でした。
夜には、オムツもおやつも用意してくれてました。
閉園は17時位までなのに、解放してくれてて。。
インフォメーションのお姉さんは、バギィを預かってくれたりしょぼん
感謝です。
さて、帰れない私たち、、ホテル探しを少ししたけど、、
旦那の事務所で一夜過ごす事になりました。
社長さんも心良く貸してくれてしょぼん頂きものの毛布も出してくれて。。
夕飯は、途中、ちょー品薄になったコンビニで食料を調達して(インスタントラーメン)普段、駄食が夜に出来ない為、ちとうれしい。。
5階で揺れて不安な夜でしたラジオから流れる地震速報にも『来るっ!!』とビクビクッ、、亡き父母の実家は、福島に茨城。。親戚も心配で、殆ど寝る事は出来ませんでした。私には、近くに旦那もいるし、息子もいる。。
旦那としては、私らが家に居てくれてたほうが良かったのだろーけど。。私にはベストな状態でした。

次の日、電車が動き出しているのを確認し、3人で、ゆるり家へ帰りました。
電車は普通に動き。。大変な状況でも周りの時は日常と変わらない。。みんなの心の中とちぐはぐな風景でした。。
南相馬の親戚も、日立の親戚も、、何とか避難しており無事でした。確認とれたのは、日がたってからでしたが。。

沢山の犠牲者の皆さんに、ご冥福をお祈り致します。。
被災者の皆さん
ささいな事からでも頑張って応援していきます。
生きて活きましょーグー