おはようございます。


先日の神戸出張編。ついでだからとまわるシリーズ。


会議の前に訪ねたのは…



湊川神社。


時は南北朝時代。後醍醐帝に反旗を翻した足利尊氏は京都で敗れ、九州へ落ち延び


やがて大軍を引き連れ再び戻ってきます。


楠木正成と新田義貞の軍は足利の大軍を湊川で迎え撃つことになりました。


足利軍の作戦で、東側に陣取った新田軍から分断され孤立した楠木軍は


6時間にも及ぶ激闘の末、この湊川神社の辺りにて自決したと伝えられます。




建武3年(1336年)の今の暦で7月4日というので、ちょうど今くらいの時期ですね。


楠木正成の自決の地がハッキリとここだと同定されたのは江戸時代初期の事。


やがて水戸光圀(水戸黄門で有名な方ですね)が感銘を受け、天皇を敬う『水戸学』の中で


楠木正成は帝を助ける第一の忠臣として、その評価を受ける事になりました。


幕末には、尊王攘夷を志すひとたちの聖地として崇め奉られる事になり


幕府を倒す為の原動力のひとつともなりました。


後の明治時代に、明治天皇が寄進を行ったりしている事でいかにここが重要な場所であったかがわかりますね。


さて、長くなりましたが



神社の右手前側に、正成(大楠公)を埋葬したとされる墓所があります。




神社の左奥には正成の陣没地(南北朝時代には切腹という概念はないので、誰かと刃物で刺し違えるみたいな自殺の仕方がありました)


正成は弟の正行と刺し違えて果てたと太平記にあります。




楠木正成はここ湊川の決戦の前に、後醍醐帝へ


足利の大軍を京で迎え撃つのは難しい。一度吉野へ引くべき(吉野は山に囲まれていて、大軍では攻めにくく守りやすい)


と説きますが、これを却下されて


死ぬ覚悟で陣取ったとも言われています。


天皇方に鎌倉幕府を倒す前から付き従い、その忠義を全うした正成。


時を経て、神格化され江戸幕府倒幕の力となり


戦前の教育にまで影響を与えました。


そして、今も尊敬の念をもって人々に敬われている。


歴史とは不思議なものだなとつくづく思います。