平成21年5月12日 父は71才の若さで、永遠の眠りについた。

RUKAの高校合格を待っていたかのように・・・

商売が忙しい月末をさけるかのように・・・
みんなが集まりやすいこの時期を選んだかのように・・・。


クモ膜下で倒れてから、3年目のことだった・・・。

「親父が倒れた・・もうだめだ、早く帰ってきて!」と

島根の弟から知らせを受けたのが、7月4日。

倒れたその日に、今日か明日には・・・と言われた父が

よく3年ちかくも頑張ってくれた。


私がかけつけた時は、すでに意識はないに等しかった。

何度呼んでも、返事はかえって来ない・・・

時折、声に反応するかのように「ああぁ・・・」と声を絞り出す。

大きく見開かれた目は、声をかけると

声のするほうに目玉を動かす。

「最後まで生きているのは聴覚だから、いっぱい話しかけて

あげて!!」と、看護師さんに言われた。

父の好きだったクラシックのCDも、ずっと流し続けた。

私はこの夏の間じゅう、母と交代で父に付き添い

1時間かかる病院と店を往復した。

子供たちのことは、旦那と旦那の両親にお願いした。

この時のことは、今でもこちらの両親にはとても感謝している。

RUKAが中1、RUKIが小3の夏だった。

こうして私は、父の容態が安定した8月の末まで島根にいた。


そして・・・。

亡くなる年の3月末、容態に変化が・・・。

私はGWを利用して島根に帰ったが

落ち着いていたため(私も栃木に家族を残してきているので)

栃木に、ひとまず戻ってきた。

私は、この時のことをずっと忘れない。

この頃になると、ほとんど反応も見られなくなって

恰幅のよかった父の身体もずいぶん痩せ細ってきていた。

帰り際、手を握り締め「じゃあ、行くね」と言う私に

目を動かし「ああ・・ううあぁ・・・」と、身を乗り出すようにして

なにかを私に訴えていた。

それは、私の名前を呼んでくれたようにも思えたが・・・

頑張れ!と私を元気づけたかったのかもしれない

さよなら!とお別れを言いたかったのかもしれない

後ろ髪を引かれる思いで、何度も何度も病床の父を振り返り

私は、私の日常が待つ栃木の家族のもとへ飛んだ。

・・・・・・・・そして、その5日後のことだった。


その日の朝、母からの電話。

「お昼まで、もつか分からん・・・・・」と。

急いで、父の待つ島根に向かったが

私は父の最期に間に合わなかった・・。

叔母から携帯に連絡が入った。

「○○、ごめんね。お兄さん、○○のこと頑張って待ってたけど

 2時12分に息をひきとったんだよ・・。」

私は、他の乗客の人に見られようと、そんなことかまわなかった。

嗚咽をしながら、ずっとずっと・・・ひとしきり泣いた。

そして、この距離を悔やんだ・・・・・。


私が結婚するとき、近所のおばさんに言われた言葉を思い出す。

「まあ、そんな遠くにお嫁に行って・・・。

 ○○ちゃんは、親不孝だね。」

なにをもって親不孝というのか、その時は疑問に思ったが

今は、その言葉が痛い・・・・。


父は、大勢の親族や友達や仲間に見送られ

5月の爽やかな風と共に、空へと旅立っていきました・・・。 


こうして月日は流れ、RUKA高3、RUKI中2のこの5月

父の3回忌を迎えました。


父との思い出や父への思いを、記録として残しておきたかったので

ブログに載せさせてもらいました。

次の記事は、父に宛てたレターです。