先日、敬愛する一人の大先輩が亡くなったという訃報が届いた。この方は台湾YMCAの最高責任者でもあり、在任中何度も日本を訪れ、私はそのたびにお目にかかり交友をいただいた。ある年、台湾に行ったとき、自室に飾ってある小さな水彩画の額を示して「この絵を君は覚えているか」と言われた。瀬戸内に浮かぶ小さな無人島に創設した神戸YMCA所有のキャンプ地「余島野外活動センター」の風景を描いたものだった。気恥しい思いもしたが、名もないことを大切にしてくれていたのだ。 

 

 忘れかけていた過行く思い出を引っ張り出すかのように顧みると、私は二つの大きな社会貢献組織に育まれたことを改めて感謝と共に思い出すのである。一つはYMCAに身を置いたことである。もう一つは国際ロータリーの一員として活動の場をいただいたことである。 

 

 わたしは1965年、神戸YMCAに入職し以後30年間働いた。YMCAの名は世界的にもよく知られていると思うが、イギリスに起こった産業革命によって劇的に社会の動きが変化していく。人びとは農村地から都会のロンドンに仕事を求めてやってくるが、特に青少年は、都会の中であふれるような人々の中で退廃化していく。

 

 この現状を憂慮した一人の青年ジョージ・ウイリアムスが立ち上がった。彼はロンドンの一隅にある呉服店の店員としてその屋根裏を住まいとしていた。 

 彼は12名のキリスト教信仰者と祈りから始め、キリスト者に限らず青年層に対する活動の推進・啓蒙及び生活改善事業を思い立ち、1844年、今から180年前、世界で最も早いNGO組織ともいえるYMCAを創設したのである。このボランティア組織はたちまち多くの共鳴者を生み、5年後にはアメリカのボストンに、またドイツにと各国に広がっていった。

 

 日本に伝播したのは36年目の1880年(明治13)、青年牧師有志により東京YMCAが発足した。初代会長は小崎弘道で、「Young Men's Christian Association」を「基督教青年会」と訳した。今日誰もが使う「青年」という言葉はYoung Menを小崎が訳した人物としてしられている。 

  

 発展ししたYMCAは、ボランティア活動やキャンプなどのアウト・ドア活動、生涯教育、体育、さらに英語教育にも力を注ぎ今日も継承されている。また若い人々がボランティアリーダーとして活躍している。バレーボウルやバスケットボウルの開発に努めた。日本では、初めて体育館と室内プールを開設したと記録されている。現在120か国以上の国が活動の場を持っている。ウクライナにも存在する。また、大学内にも学生YMCAがあるが、設置に奔走したのはアメリカの教育者ジョン・R・モット博士だが、もう一人世界YMCA同盟会長を務め、国際赤十字運動を展開したアンリ・デュナンと共に「ノーベル平和賞」を受賞している。 

 

 もうひとつ私の人生を彩ってくれた団体、国際ロータリー運動に触れてみたい。シカゴで弁護士をしていたポール・ハリスは、さまざまな分野の職業人が集まって知恵を寄せ合い、生涯にわたる友情を培うことのできる場をつくることを思い立ち、1905年世界初のロータリークラブ(シカゴ・ロータリークラブ)を設立したのである。最初の活動は公園のトイレ清掃から始めたといわれているが、その輪は徐々に広がり、人道的奉仕へと続く。今ではさまざまな職業や文化をもつ会員が、地域に根差し、草の根の活動や国際的な取り組みを行っている。 

 

 ロータリーには二つの公式標語があり、「超我の奉仕」と「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」とある。中でも世界的に大きな活動を展開したのが「ポリオ撲滅運動」である。1979年、ロータリーはフィリピンで600万人の子どもにポリオの予防接種をするプロジェクトを始めた。この取り組みの成功を受け、さらにポリオ根絶のために募金を含め、長い活動を続けてきた。こうして1988年の125カ国から発症したポリオは、わずか2カ国に減ったと記録されている。日本では、北海道夕張で大量のポリを発生した時期があり、札幌医科大学の整形外科医でもある河邨文一郎は留学から急遽帰国し治療に当たった。生々しい記録を河邨は記している。後に北海道の地区ガバナーに就任している。 

 

 ロータリーは、創設後わずか16年の間に6大陸へと広がり、日本には1920年(大正9)に東京に初のロータリークラブが設立された。今やロータリアン約140万人ともいわれ、グローバルなネットワークを形作って滑動をしている。

 

 わたしはロータリー在籍の時には、青少年に関連する組織に配属され、大いに楽しんだことを思い出す。一つは「RYLA」「Rotary Youth Leader Award」という組織で青年の潜在的リーダーシップを開発しようというプログラムの一員として活動したことである。先に述べた「YMCA余島野外活動センター」はしばしばRYLAセミナーの会場として用いられ、わたしも手伝った思い出がある。 

 

 わたしは、こうして二つの国際NGO集団の一員として、長く青少年に関わってきた。今なお感謝と誇りを忘れることはない。今もフェイス・ブックなどを通して旧交を温める機会があるのはありがたいことである。「我以外皆師」を心に刻んでこれからも元気と勇気を大事に過ごしていきたい。 

 人間的にも鍛えられ、他者に関わることの喜びを与えてもらった二つの組織に想う。「人は城、城は人垣」という。多くの人と触れ合えたことを忘れることはない。 

2024年2月8日記