お疲れ様です。そしてお久しぶりです。4回生の近藤真史と申します。

この度私は、2024年8月11日の第71回全国国公立選手権水泳競技大会(@インフロニア草津アクアティクスセンター)を持ちまして、神戸大学水泳部競泳面を引退いたしました。あれから1ヶ月経ったんですね。時の流れが早く感じます。

 

最後の1ブレのレース前、ものすっごく緊張していて何度も何度もトイレに行ったり、吐きかけていたのですが、後輩や同期が「頑張ってください!」と励ましの言葉をかけてくれたり、ひろとが肩甲骨のストレッチをしてくれたおかげで、多少緊張が和らぎました。でも結局ベストも出せず、1分10秒台を切ることもできず、応援してくださった皆様には大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

ゆうすけが2ブレのスプレッドシートに「1分10秒割ってくださいね!」と書いてくれたのに結局割れなかったです。ゆうすけほんまごめん笑

 

でも、レースプランとして、前半は大きく突っ込む、後半でペースを落とさないことを意識してうまく行ったので、悪くはないと思います。

 

さて、ここからは自分の水泳人生を振り返りつつ、神大水泳部での思い出を振り帰って引退日記とさせていただきます。

 

その前にまず、なぜ自分は全国公で引退を決めたのでしょうか。

 

それは、全国公という大舞台で終わるのが一番自分にとってしっくりくると思ったからです。夏季長か全国公、どっちで引退しようか考えましたが、やはり全国公の方が大舞台やしラストに相応しいなと感じていました。

 

幼少期〜小学校

さて、私の水泳の始まりは、幼少期に親に入れさせられたスイミングスクールでした。立教大の山下結生くんと同じ、コパン知多です。実は一時期一緒に泳いだことがあります。(2バック3位おめでとう!)

 

 

当初の僕は、全く記憶にないのですが、親から聞いた話によれば、生意気なやつだったらしいです。コーチに反抗してばかりだったみたいです。覚えてませんけど。

当初は体罰が問題視されてなかったので、ビート板で頭叩かれるのが日常茶飯事でした。キックの仕方やプルの仕方を丁寧に教えてくれたにも関わらず、自分はそれに従わず自己流で練習していたので、コーチに怒られてばかりでした。

この時S1はFrにしていました。理由は4泳法のうち一番泳ぎやすかったからです。なんともガキみたいな理由。

 

しかし小学4年の時、親からとんでもないことを告げられました。中学受験に専念して欲しいから、水泳を辞めてほしいと。

 

当時の僕は学校の成績もよく、内申点はAがほとんど。テストも100点満点が多く学年内で上位の優等生でしたので、私立中学に行ける見込みがあると両親が判断したのでしょう。

公立の小学校の教育課程だけでは合格は無理なので、塾に通わざるを得ませんでした。ですので、実家から近い中学受験専門の塾に通い始めたのですが、そこが週5で1日4時間授業があり、毎週土曜日には週例テストという1週間分の授業範囲の確認テストをしないと行けないというもはや刑務所に近い塾でした。この塾に通いながら水泳をするのは無理ではないかと両親が判断したため、水泳を辞めてほしいといったらしいです。

そう言われた時、自分は「嫌だ」と何度もいったのですが、両親は僕の言うことを聞いてくれず、そのままスイミングを辞めさせられてしまい、嫌々中学受験をしていました。

 

結局、中学受験は失敗し、地元の公立中学校に進学することになりました。

 

中学校〜高校

2014年、地元の中学校に進学した私は、入学早々部活について持ちかけられたので、部活なに入るか考えていました。でも自分は入部するなら、絶対水泳部がいい。水泳部以外入りたくないと思っていました。なぜなら、中学受験で辞めさせられたことで悔いが残っていたからです。

体験入部に来た時でも、先輩が本当に優しくて面白くて僕らのことを可愛がってくださる方しかいなかったので、ここしかないと思いました。

 

中学受験の関係で水泳を断念したために3年のブランクがあったため、体力は激落くんでした。中一の時の大会のタイムは、短水で半フリ50秒とか余裕でかかってました。遅すぎますね。

 

ですが、この中学三年間が、僕のS1を変えた転機になりました。それは同期のNくんの存在でした。Nくんは、同期の中でも特に一番仲が良く、一緒に下校したり、図書館で勉強したり、カラオケに行ったりもしていました。そんな彼のS1はBr。いつもおちゃらけていて駄洒落を言いまくる彼と、試合や練習でBrを泳ぐ彼とのギャップに惹かれました。華麗な入水。ひとかきひとけりで周りの選手との差を広げ、一つひとつ丁寧に速く泳ぎきり、最後のタッチでガッツポーズ。まさにこの瞬間、いつもの彼とは違うギャップに惚れ、自分もあんなふうにかっこよくBrを泳げるようになりたいと思ったのが、S1をBrに変えたきっかけでした。その後もNくんからBrの泳ぎ方のコツを教えてもらいつつ、試合ではFrではなくBrメインで出場していました。

 

半ブレのタイムは、50秒はかかっていた気がします。ほぼ初心者でしたので。笑

ぶっちゃけタイムもスイミング時代よりは上がっておらずあまり好記録は出せずに引退してしまいました。

 

 

引退後、高校受験に励んだ結果、見事第一志望の半田高校に合格。そしてここから僕の高校生活が始まりました。

 

高校の部活は、もちろん水泳部一択で、他の部活は入る気にはなりませんでした。と言うのは、中学で何も功績を残せず引退した自分が悔しかったからです。中学の自分を越えようと水泳部に入部した矢先、自分に立憚る壁がありました。

 

それは、同期や先輩のレベルが自分より高かったことです。新しく入った同期は、県大会・東海大会・JO出場経験者だらけで、地区予選に出ただけの自分にとってものすごく肩身が狭かったです。

 

さらに、夏の総体は1種目3人までと言う枠組みがあることを知ったのですが、同期や先輩に自分よりブレが速い先輩が何人もいらっしゃったので、当然初めの2年間は総体でブレを泳ぐことはありませんでした。ちなみに1年は2バタ、2年は4個メをやらされました。枠が余っていたからです。死ぬほどきつかったのは覚えています。バッタ専やIM専は本当に尊敬です。

 

「いつかは総体で自分の専門種目で泳ぎたい」

 

総体でブレを見ていた時にいつも思います。

自分がこの高校水泳部の中で見つけた目標です。

 

中学でS1をブレに変えてから、ちょっとしか変わっていないので、あまり実力はついていませんでした。

 

この目標を叶えるために、行ったことはただ一つ。ライバルの泳ぎを真似することでした。自分より速いライバルたちはどんな泳ぎをしたら速くなるのか。技術を盗んでそれを練習で生かすことを繰り返していました。

 

やっとのことでブレの枠を掴めたのは、3年生の時です。当時ブレ専が自分の同期で僕以外に3人、2年生の後輩に1人、1年生の後輩に1人いました。ベストタイムは1ブレと2ブレともに4番目でした。総体の枠の決め方は、序列関係なしに基本ベストタイム順で決めるのですが、ベストが僅差の場合は、練習中にタイムトライアルを行い、その時の順位で枠が決まります。結果は、1ブレ2ブレともに2位でした。1位は同期で一番ブレが速かったY君、3位は1年生の子でした。この結果を聞いた時、僕はやっと枠を取れたんだ。自分の専門種目で戦えるんだとやり切った気持ちになりました。

 

地区総体当日。初日の1ブレでは、1分13秒という大ベストを叩き出し、かつてブレ専1位だったY君のタイムを超え、県大会のリレー枠を掴み取ることに成功しました。この瞬間僕は高校ブレ専の中で1番になりリレー枠を取ることで、周りから自分の努力が認められたかのように感じました。

 

しかし、問題は二日目の2ブレでした。なんと、スタート時にゴーグルがずれてしまい、ムスカ状態で泳いでしまいました。残念ながらタイムもベスプラ5くらい落としてしまい、泣きそうな気分になりました。この出来事がきっかけで、レース前はゴーグルがずれないようにシリコンを入念に装着していました。スタート前にシリコンをいじっているのもそのためです。

 

本来地区総体で引退のはずが、県大会に出ることになったため、引退時期が伸びました。これはこれで嬉しいかもです。

リレーに出るのは人生初なので、引き継ぎの仕方がわからなかったので、地区総体から県大会までの一週間は引き継ぎの練習メインでした。

 

一週間後、県大会当日。この日が自分にとって初めての大舞台の日でした。ガイシアリーナは、観客席から見たら広かったのですが、いざプールサイド入ったら、観客席から見た時よりも大迫力。

 

アップタイムで初入水。第一の感想。ふっっっっっっっっか。溺れるて。プロの選手はこんな深いプールを経験しているのか。俺には無理だー。と自信喪失。

 

さて、メリレ本番。引き継ぎは無事成功。練習で意識したことを思い出したらできました。初めのひとかきひとけり、深すぎて浮き上がりミスりかけましたが軌道修正でなんとか持ち堪えました。引き継ぎタイムは、1分11秒85でした。地区総体は13秒でしたが、なんと2秒も更新しています。しかも1週間で。タイム見た時リレーメンバー全員阿鼻叫喚してました。

 

 

これにて、高校水泳は引退です。最後の引退試合でベストを出せたので、悔いなく引退できました。この時大学でも水泳続けるかは未定でした。

 

 

 

大学〜今に至るまで

一年間の浪人の末、無事神戸大学に入学しました。さて、部活に入るかサークルに入るか。正直迷っていました。でも部活なら水泳部一択です。なぜなら大学の部活ってガチ勢が多く経験者だらけだから、未経験から入るのは経験者に打ちのめされてしまう未来しか見えず、無理があるのではないかと考えたからです。

 

サークルで入るんだったら、アカペラサークルのGhana Ghana、六甲祭実行委員会、神戸大学応援団のどれかかなと考えていました。ですが、水泳部は兼部禁止(当時)だったため、もし部活入るのなら、水泳部一本でサークルはできないと言うことになります。そこで色々新歓や体験入部に行って見たのですが、そのなかで自分がなぜ水泳部に入部に決めたのか?理由は二つあります。

 

まずはやはり水泳部の方が先輩方みんな面白く優しい方が多く練習雰囲気もすごく良かったので、ここにしようと決めました。

 

もう一つは、全国公の存在でした。新歓の時に、全国公は標準記録もインカレよりもハードルが低く出やすいとの説明があったので、これを見て自分でも大舞台に立てるのではないかと思い、入部を決意しました。

 

いざ入部してみて分かったのですが、その壁は大変高いものでした。高校と同じ一種目3人しか枠がなく、同じブレ専の方のレベルが高かったです。自分なんて県大会でリレメンに選ばれて出ただけなので、月とスッポンでした。練習強度も中高と比べて高かったです。中高はサークルも緩めでやってたので、大学に入っていきなりハードになってついていくのにも精一杯でした。

 

もちろん初めの1年間は、得点レースに出られず、選手の応援をしていただけで、チャンピから夏季長までは充電期間でした。その充電期間は、練習をしつつ、どうすればレギュラーの枠を掴めるか?自分には何が足りていないのか?をずっと考えていました。そのために毎練習でマネさんがとってくれたタイムを見て、インスタのサブ垢のストーリーで自己反省することをし、次の練習で実践するというトライアンドエラーを繰り返しました。

 

 

そうしていくうちに、次第に練習タイムが出てきたのでこれはレギュラー取れる未来は見えてきたなと思いました。夏季長2ブレでベスト、冬季公認で1ブレ2ブレともにベスト、さらには2ブレは全国公団体権を掴み取ることができたので、2年目で、2ブレのみレギュラー枠取得かつ初めて全国公に出場できました。

 

初めての得点レースは、ものすごく緊張しましたね。中高の試合よりも緊張感はありました。神戸大学という看板を背負ってますから、それに相応しい泳ぎをしようと決め、スタート台に上がったのを覚えています。

 

 

 

 

一番絶好調だった3年目。夏季公認で1ブレ全国公の団体権切ったのを皮切りに、ほぼ毎試合でベスト更新し、そして新潟の全国公では2種目ともベスト更新することができました。ベスト率が低い中ベストを出すことができてめちゃくちゃ気持ちよかったです。全国公という大舞台で、結果を残せたことはこれまで練習をしっかりやってきた証拠なんだと思いました。因果応報ってやつです。

 

 

 

実はこれは同期にも言ってなかったのですが、入部当初から目標としていた全国公出場という目標を3年目で叶えられてしかもベスト出し、非常にやり切ったと感じたので退部することを検討していました。

 

でも結局辞めず続けました。新しい目標を見つけたからです。

 

それは、個人で全国公を割ること

 

僕が全国公に出れたのは、みんなが力を合わせて手に入れた団体権があったおかげで、自分の力で手に入れたものではありません。自分で目標に向かって努力して出場権を掴み取ったら面白くね?と思ってしまい、結局退部をせず続けました。

 

あっという間に気づいたら4年生。就活と並行していたため練習に思うように参加ができなかったので、タイムもあまり好調ではありませんでした。

6月に無事内定をいただいたため、就活を終了し、部活にやっとストレスフリーで打ち込めるようになりました。就活という足枷がとれた後の練習は何より気持ちよかったですね。

 

個人記録までは、長水より短水の方があと一歩だったので、タイム切りのために兵庫県選や三重県短水路にも出場しましたが、残念ながら標準は割れませんでした。せっかく三重まで来たのに意味ないやないかい。これで短水の試合がなくなってしまったので、チャンスは関国とカンカレのみです。残り3週間は標準切りを目指して、全力で練習に励みました。

 

 

関国では2ブレで久々にベストを出し、標準まであと一歩かと思いきや、この後日アクシデントが起きます。

 

家の階段で転んでしまい、右の踵を骨折してしまいました。非常にバカですね。

 

全治1ヶ月と診断されたので、カンカレと全国公に間に合わないかもしれません。ですが毎日のリハビリ治療によって治癒が早くなるとリハビリを医者から勧められたので、出来る限り早めに治そうと思って病院が空いている日はほぼ毎日リハビリに通っていました。練習もプルだけでキックができないなど、制限付きで練習していたのですが、非常にやりづらいし、はよ足治ってくれってずっと思っていました。

 

リハビリの効果のせいか、3週間したのちに足の調子が良くなり、ダイブやキックができるようになりまして、無事カンカレと全国公に出場することができました。

 

カンカレはテストの都合2ブレだけ。

(8/4に受けたテスト2つのうち1つ単位落としてました。)

骨折でブレをあまり泳いでいなかったせいで、泳ぎ方を忘れてしまい、後半でばてました。カンカレで結局標準は割れなかったので、全国公の目標はベストを出してやり切ることにしました。

 

 

全国公まで残りわずか。カンカレと全国公の間は1週間もなかったので、調整するしかありませんでした。ダイブからひとかきひとけり、ターンの動作など、世界水泳やオリンピックの動画を見まくって自分の泳ぎと照らし合わせたり、過去の試合の動画を見返して調整しました。

 

そして全国公本番。2ブレは2’36”16(+1”52)、1ブレは1’10”77(+0”80)で終わりました。残念ながら両種目ともベストを出すことはできず、不完全燃焼で終わりました。

ですが、全国公に出たいという目標は叶えられたので、これでよかったかなと思います。

 

 

どうでしたか?これが、僕の水泳人生です。意外と密度濃いなと思いませんか?

 

ちなみに、僕の4年間のタイムの変化についてです。

 

まず短水です。

 

入部当初

ベスト

1ブレ

1’12”70

(2021夏季公認)

1’07”44

(2023 夏季公認)

2ブレ

2’42”15

(2021 夏季公認)

2’27”01

(2023 夏季公認)

 

1ブレは5秒66、2ブレは15秒14更新しています。2ブレやばくないですか?流石に嘘だろと思いましたが、マジなんですよね。

 

続いて長水です。

 

入部当初

ベスト

1ブレ

1’14”43

(2021 チャンピ)

1’09”97

(2023 全国公)

2ブレ

2’38”52

(2021 夏季長)

2’34”84

(2024 関国)

 

1ブレは4秒46、2ブレは3秒68更新しています。短水より伸び率は悪いですが、4年間でこんなに伸びている自分に成長を感じます。

 

私は社会人になっても水泳を続けるつもりではありませんので、大学水泳で完全引退です。もう水泳はいいです。笑 やり切りました!

 

レース水着はメルカリで売りました。レペ用のレース水着、練習用の神大の水着とキャップ、Tシャツ諸々は欲しかったらあげますので連絡ください。笑

 

来年度は大阪で就職する予定のため、関西で開催される試合は時間に余裕があれば行かせていただきます。(秋葉山と草津を除く)

 

全国公は高知開催かつ平日らしいですが、バチクソに仕事なので、有給使っていくかもしれません。まだわかりませんが。笑

 

 

では、ここから感謝の言葉をつらつらと

 

両親

23年間続けてきた水泳に終止符を打ちます。水泳がきつくて辞めたくなりそうな時もありましたが、たとえ辛い時でも真摯に相談に乗ってくれました。試合前日の食事、当日の弁当、水泳の道具一式を揃えてくれたり、仕事で忙しいにも関わらず、試合会場まで送り迎えしれたりなどいろいろな面で支えてくれました。一人暮らしを始めてから実家に帰る機会も年に1〜2回程度しかなくなってしまいましたが、試合前にLINEを送ってくれたり、差し入れを送ってくださりと陰で支えてくれて非常に感謝しています。春からは社会人として、水泳を捨てて心機一転いたします。水泳を続けてきた時に身についた継続力や忍耐力を生かし、有意義な社会人生活を送りたいと思います。

 

中学の顧問(S先生)

S先生お久しぶりです。お元気ですか?僕は現在神戸大学に通い、来年の春に卒業し、就職する予定です。え、他の生徒より遅れてるって?🤫 留年ちゃいますよ。

先生の毎日の愛のこもったメニューのおかげでここまで強くなれたと僕は自負しています。もう地元に戻る機会は減りましたが、もし機会がありましたらまたお会いできると嬉しいです。

 

高校の顧問(O先生・T先生)

お久しぶりです。お元気ですか?僕は現在神戸大に通い、春から就職します。

このブログを読んでくれたら嬉しいです。

O先生、奥さんとお幸せにしていますか? お子さんは元気ですか?

T先生、高校時代先生のいつも元気で明るく、温かく優しい笑顔に救われました。先生のおかげで高校水泳やり切ったといっても過言ではありません。

神戸に行って以降、高校まで行って顔を出すことはなかったので、4年ぶりにお話ししたいなと思っています。就職したらほぼ愛知とおさらばなので!笑

 

OB/OGの先輩方

OBOGの方は本当に話しやすく面白い方が多かったので、たとえ部活がしんどくてもOBOGの先輩方がいてくださったおかげでしんどさや辛さも吹っ飛んだ気がします。来年は大阪で勤務するので、もし同じの方がいたらぜひご飯にでも行きましょう!笑

 

他大のブレ専のみんな

自分はみんなより特別速いわけでもないから畏れ多いと思っていたけれどみんなこんな自分と関わってくれたり、泳ぎについてアドバイスをくれたりなどしてくれて非常に感謝しています。卒業してからも関わってくれると嬉しいです。ほんまにありがとう。

 

後輩

今後の水泳部を引っ張っていくのは君たちです。これからもっと忙しくなると思いますが、強い君たちならできると思います。

改めて、この神大水泳部に入ってくれてありがとう。短い間でしたが僕のこと少しでも覚えててくれると嬉しいです。就活の相談や楽な授業とか教えるからいつでも連絡してね!!時間に余裕があれば試合行きます!!

 

同期

神大水泳部で誰1人欠けることのなかった唯一の代。それぞれが個性を持っていて、お互い意見がぶつかり合う日もありましたが、なんだかんだ調和して上手く収まるのがうちらの仲の良さやと思います。(3日目勝手に帰ってすいません🙇)

部活辞めたいと思った日も何度かありましたが、みんなが寄り添って相談乗ってくれたおかげでここまでやってこれました。本当にありがとう。僕は9人のことが大好きです。今までありがとう。

インカレにも見に行かせていただきました。それぞれ自分の目標に向かって頑張っている姿に胸を打たれました。本当にお疲れ様!!!

 

最後になりますが、この3年半、本当に密度濃い時間でした。

同期先輩後輩OBOGの皆様のみならず、水泳部を支えてくださった本間先生、金監督、凌泳会の皆様に心より感謝申し上げ、この引退日記を終了したいと思います。

 

湊覇 (2021)

喝采 (2022)

繁吹 (2023)

創漣 (2024)

 

2024年9月11日

神戸大学水泳部競泳面 4回生

近藤真史