早朝の通勤時に、咲いている紫陽花に気付く。

今年は入梅前に季節の変わり目を知る。

何も変わらぬ日常の中にも季節という節目が

確実に訪れる時の刻みを感じる今日この頃。

 

 

本日の金言

好きと言える仕事に運よく出会えた。

後は人間性を高める事が課題だと思う。

 

 

来週には還暦を迎える事になる。

意外にも心躍る事もなく乱れる事もない。

静かに何気無くその日が通り過ぎればよい。

私の中に何も変わる事はないのだから。

 

以前の生き直し、やり直しなどの気負いはなく

今は余生を過ごすといった心穏やかさがある。

目標目的が今のところ見つからず

暫くは流されるまま日々を送るつもりでいる。

 

そんな中、何故か生活習慣というルーティンは

しっかりと守れているのは不思議に思う。

楽だから、という理由で日常に変化を求めない、

若い頃には考えられない毎日がある。

 

その中にSAXを吹く事を毎日欠かさない様にしている。

独学故一向に上手くなる気配は感じられないが

下手くそ乍ら自身で吹く音は毎日変化が感じられる。

今は上手くなる事よりもSAXに触れている事が楽しい。

 

人生の目標を失った中で楽器に触れる事は

毎日の生活の中で数少ない楽しみになっている。

思う様に音が出てくれないのに嫌いになれない。

自宅に言う事を聞かないペットを飼っている人みたいかも。

 

 

恥ずかしながら毎朝SNSにて練習風景動画を上げている。

これも生活習慣と決めたので素直に守っている。

自身の見た目の醜さ同様音の方も酷く見聞きに耐えがたい。

もしや公害の垂れ流しではないかと懸念している。

 

本日のSNSに上げた動画に対してネガティブコメントが付いた。

何処の誰かは知らないが暇な奴は何処にでもいるものである。

嫌なら見なけれないいのだと思うのだが

一言言わずにおれない何か感情があったのだろう。

 

よほど音楽やSAXに愛情があり下手さに不満だったのか、

はたまた激励のつもりで敢えて貶したのか、

いずれにしてもポジティブにもネガティブにも取る事はない。

見知らぬ他人に私の生活習慣を乱される云われはない。

 

何故私が楽器を、SAXを始める事になったのかは

過去のブログで記した記憶があり、その気持ちは未だ変わらず。

他人に何を言われようと揺る事も怒る事もない。

私が今あるのは彼女との約束を守るが故である。

 

人にはそれぞれ事情を抱えて生きている、と

我が心の師と仰ぐ伊集院静氏の一節がある。

それは誰かに見られる事なくその人の中にあるだけ。

そう思えば自然と感情が穏やかになる。

 

若い頃は血気盛んで心穏やかな日々など望まなかった。

何時しか血気が盛る事もなくなり穏やかさが楽に感じる。

毎日がこの気持ちのまま過ごす事が幸せだと思うようになった。

幸せな余生が始まったような気がする。

 

 

やる気やテンションが上がらずとも

日々幸せで過ごす事は出来るものだ。