042 続いた航空機事故 | こばじぃのブログ

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三軒茶屋から山梨県上野原に転居した【ぢぢぃ】のアレコレ

2022/6/1:サイドバーに、
上野原情報メディア「めためたUENOHARA」による、
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広島をベースにしていた航空会社“東亜航空(TAW)”と、東京羽田を拠点にしていた“日本国内航空(JDA)”が1971年5月15日に合併して“東亜国内航空(TDA)”となり、日本の航空業界の三社体制が始まった。


ちなみに、TDAはその後の国際定期便の運行開始に伴って、1988年に“日本エアシステム”と社名を変更し、最終的には2006年の日本航空(JAL)による吸収合併によって消滅してしまう。



TDAが発足して1カ月半の1971年7月3日の夜、

「東亜国内航空の63便YS-11“ばんだい号”が、北海道の函館空港付近で消息を断ち…」

というニュースが流れた。
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(この画像はTDAのYS-11だが、ばんだい号ではない)


事故当時の函館空港付近は風雨が強くかったために捜索活動にも影響を与え、自衛隊のヘリコプターがばんだい号を発見したのは翌日の事であった。
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最終的に、乗務員4名と乗客64名の合計68名全員が犠牲になったが、同機にはフライトレコーダーやボイスレコーダーが登載されておらず、事故原因の完全解明ができなかったが、視界不良という外因とともに、機長昇格訓練中の副操縦士によって運行されていた事がわかり、原因追究と責任問題ともに完全解決には至らなかったようだ。


ちなみに、YS-11(ワイエスイレブン)は戦後唯一の国産航空機であり、1962年の初飛行以降182機が生産運行されたが、2006年9月末で日本の航空会社による運行が全て終了した。

自衛隊の練習機や、海上保安庁の長距離捜索救難機としても活躍していたが、まだ飛んでる機はあるんだろうか…


TDAからJASまでの間に、死者の出た航空機事故はこれのみなので、“ばんだい号墜落事故”さえ無ければ35年の社史を傷一つなく閉じられたのに。


なお、この事故の経緯から、事故調査委員会による原因究明のための問題点などが書かれている本が
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柳田邦男著『続・マッハの恐怖』で、絶版になってるようだが、Amazonには中古がたくさん出品されているので、興味のある人は一読されたら、と思う。




そして、まだ“ばんだい号事故”の調査ニュースが繰り返されていた、1971年7月30日の午後。


今度は、全日空機と自衛隊機が空中衝突!したというニュースが駆け巡った。


北海道千歳空港を出発した、全日空機のボーイング727-281
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(同型機)

が、岩手県雫石町上空の28,000フィート(約8,500m)付近で、編隊飛行訓練を行っていた戦闘機F86F
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(同型機)

と空中衝突し、両機ともに操縦不能となり、全日空機は降下速度が音速の壁を越えたために5,000m付近で空中分解してしまった。


これにより、全日空機の乗員乗客162名全員が死亡したが、悲劇はこの先にあって、空中分解のために乗客たちのほとんどが機体の残骸とともに雫石町の各地に落下し、極めて凄惨な状態で発見されたのだ。

(一部の週刊誌がこの遺体の写真を掲載して問題になった)


この画像は、山中で見つかった機体の一部。
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その一方で、自衛隊機の訓練生はパラシュートで脱出して二人とも無事だった。



ちなみに、F-86はノースアメリカン社が製造していたジェット戦闘機で、愛称は“セイバー”という名機であり、F-86Fは三菱重工がライセンス生産を行っていた。


また、東京オリンピックで空に五輪を描いた“ブルーインパルス”もF-86Fだった。




この同じ日、海の向こうのサンフランシスコ国際空港で、パンアメリカン航空のボーイング747-121
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(同型機)

が離陸に失敗し、機体が損傷したまま上空を旋回しながら緊急着陸を求め、満身創痍の状態で辛うじて着陸することが出来た。


重軽傷者が29名出たが、幸いにして死亡者はゼロだった。



- 続く -



その後、1982年の“逆噴射”まで、日本では航空機の大事故は起きていない♪