ヨガのプラクティスを始めて、5年が経った。

始めた当初は、自分の周りにあるのは、アシュタンガヨガの教本はジョン スコットの本しかなかった。
最初は、ポーズの完成形(写真のみだが、、)に、どうやったら近づけるか、心を砕いた。

その後、ほかの人のプラクティスを見る機会が出来、どうしたら、ああいう人のようなアサナがとれるかに、執りつかれていた。 単純に羨ましいと感じていた、、、

ここインドに来て1ヵ月半、最近は周りを善い意味で観ていない自分がいる。
どれだけ、自分の内部を観るか、に集中できている気がする。

確かに、他人のアサナを見て、ああなりたい、と思う気持ちはモチベーションを高める上では有効に思う。
が、その人と自分は違う個体、ということも忘れてはならないと思う。

日常生活であれ、仕事であれ、ヨガのプラクティスであれ、一般的に「良い」とか「出来る」、という人がいることは確かだ。
ただ、その人のやり方を、そのまま自分に当てはめて、出来るようになるか、と考えると疑問符が付く気がする。
 
その人のやり方の中から、自分に合うヒントを見つける事が、大事な気がする。

ヨガをしていると、「もとから体が柔らかいからできるんだ、、」 とか 「もとから体が固いから出来ない、、」
という言葉を聞く機会がある。
ただ、殆どの人は赤ちゃんの時は柔らかかった筈だと思う。

「もとから、、、」 というのは、今の自分から目を逸らして、責任転嫁をしているかもしれない。
なかなか、そうはいっても難しいものだけれど、、

他人と比べて、ヒントを頂いて、
昨日の自分と比べて、1%でも「なにか」 が見つかる様な「いつもと同じ、生活」
をおくりたいと思う。

ではまた


 
少し前から、ここインド、マイソールにかなりの数の日本人が、ヨガのプラクティスに来ている。

ある外国の方からは、リトル東京みたいで、怖い、、、みたいな事を言っていた。
おかげで日々のコミュニケーションは日本語で、ほとんど間に合っている。

先日、日本人10人くらいで、夜に集まって、飲み会というか座談会のような感じになった。
そのときに、自分の夢について少し話した。

ほかの人の夢について聞いていると、いかに自分が、普段何も考えていなかったのかが、痛感させられた。
単に夢を語るということと、その実現のために、真剣に向き合うことの違いは何処にあるのだろうか。

同じことの繰り返しに見える、日常生活の中で、まったく新しい気づきを得るためには何が必要で、何が必要ないのか
そのためのヒントを、頂けてよかったと思う。

食べたり、動いたり、と同じで、想う、ということも、他人に変わってもらうことの出来ない、自分でしていく必要のあることだと、実感しつつある。

後.3週間ほどで、この地を後にすることになるが、まだまだいろんなきづきが待っていると思うと、楽しみではある。

ではまた。

こちら(インド)に来てから、はや1ヶ月、周りの方々のお陰で、ものすごく濃密な時間を過ごせている。
ありがたいことです。

今、借りているアパートメントがキッチンが無いので、食事は全て、外食になっている。

日本にいるときより、はるかに肉食になっている自分がいる、しかもインドで、、、
しかし、体調はすこぶるいいようだ。

昔、本でかじった、操体法の本には、歯の種類とその本数によって、食事の内容が決まってくるというようなことが、書かれていた気がする。
成人の歯は、犬歯が4本、門歯が8本、臼歯が16本で構成されているとのこと。
それぞれの歯に役割があって、犬歯は肉を食べる歯、門歯は野菜を食べる、そして臼歯は穀物を食べる用に、、
と書かれていた。
比率にすると 肉:野菜:穀物=1:2:4 となる、この割合で食べれば、体には合っているのだそうだ。

ただ、最近は巷に食事に対する、情報が溢れ返っていて、一概にどれが万人に良いとは自分には思えない。参考には大いに役に立つ気はするが、、、
適当に体を動かして、食べたいときに、食べたいものを、食べたいだけ、食べる。

本能に従って、食事をする事の方が、いたずらに、~健康法Etc、、に従うより、いいような気がする。

食事という字は、「人を良くする事」 と書く。
今、自分にとって、なにが必要なのかは、自分のからだが一番良く知っていると思う。

その自分のからだが、巧くはたらく様にする為に、何か体を動かすということが必要になってくると思う。
日本人で、運動を日常の習慣にしている人は驚くほど少ないようだ。

もう少し、いい意味で、「わがまま」に生きてみてはどうだろうか。