最近、日常生活の中で、立つ事に対しての意識が変わってきた。

その感覚で、ヨガのプラクティスをしていると、

今まで、何もしないで立っていた時と、プラクティスをしている時の立つという感覚の間に、違和感を感じていたのが、無くなってきたというか、からだで、なるほど、こういう事か、、

と感じられるようになってきた。

具体的には、立つという事は、足の裏が地面についているときだけの事ではなくて、足の裏以外でも、地面についているところが、足の裏のようになるんだな、という事でしょうか。

そういう感覚でプラクティスをしていると、立つ事、とは次に動き出せる可能性を持っている状態ではないかな、と思う訳です。

で、ヴィニヤサ(呼吸と動作をあわせる事?)との関わりですが、最初は地面に着いているところから、動きが伝わってきて、新たな状態を造っていく、

その事を、動きながら、からだの中を感じていくと、別に地面に着いていないところ(例えば、背骨とか)
も、その下の部位(例えば、動いているところが、胸椎だとしたら、その下は腰椎になりますが)が、地面になって、そこから動きのきっかけをもらえて、そこに少しづつ、もう一つ上、もう一つ上、とエネルギーの足し算が出来てくる、その結果、僅かな力をいろんなところから、合わせて、大きなちからが出せそうな気がします。   

あくまで気がする、だけですが、、、

もう少し、もう少し、からだの中を探検してみたいと思う。

なにが見つけられるか、まだまだ楽しみは、からだの中に、、、





最近、昔の事を夢に見たり、思い出したりする事が多くなったような気がする。

あまり、自分も若く無いという事なのか、、、

自分は昔、武道を練習していて、学校のクラブで練習を重ねていた。
そのときに云われていた事と、社会人になってから仕事の中で、云われていた事が、そのまま使われているんだなあ、と思って、今まで過ごしてきた。

部活と職場、2つに共通していたのは、日本人は「伝統(または類似する言葉)」という言葉が好きな人が多いみたいだ、ということ。

「これがうちの部の「伝統」だから。」とか、「この会社では今まで、これでやってきたんだ(ここでは伝統という言葉ではなかったが、似たような意味に思われる。)」とか。

はたまた、飲み会などで、「こういう事(詳しくは書けないが)をするのが、うちの伝統だから、、」
とか。
いつもながら、判りにくい話を書いて、すみません。

ここで云いたいのは、この「伝統」が何を意味しているか、言っている本人にも判っていないのではないか、という事。

伝統の名のもとに、指し図された事が、指し図された人にとって、少しでもいいものなら、いいのだが
明らかに、何かのエゴを押し付けているだけのように見える事が殆どのような気がする。
その結果、その人の才能を奪っていただけではないのか、、、

ただ、いま偉そうな事を書いているが、かつては、自分も同じ事を後輩に強いていた、、、
自分も加害者だったんだ、と思う。(このまえ夢で見て、正直、落ち込んだが、、、)

ここで、伝統の意味を、独断で考えてみる(あくまで独断ですよ。)

伝は「人が云う」で統は「すべる→あつめる」ではないかと。
人類の歴史でそれこそもの凄い言葉が残されており、それをすべる、のは無理な気がする。

なので、伝統とは「伝統をやぶること」ではないかと思う。

こう考えてみると、今までと同じ事の繰り返しでは、「伝統」とはいえない気がしてきた。

、、、あまり批判的な事を書いていては、鬱になるので、ヨガのプラクティスに絡めて書いてみる。

アシュタンガヨガのプラクティスは、毎日毎日、同じアサナの修練をするが、「同じアサナの修練であっても、同じではない、全く新しい自分の気づき」
があれば、からだが喜んでくれる気がする。

だから、プラクティスの最中に顔がにやけてくるのは、仕方がないこと、なのである。

どれだけ、「変人」と云われようが、いい意味での「伝統」を貫きたいと思う。

ではまた。
 
最近は暖かくなってきて、早起きが辛く無くなってきた事は有り難い事だと思います。

最近、力を抜くという事について、どういう事なのか?、を感じながらプラクティスをしております。
何かの本で読んだのですが、力を抜く事は、ゼロの状態になる事ではなく、

「刀を抜く、栓を抜く、抜群」などのように、力を抜き出す事、抽き出すこと、である。
という記述を見て、なるほどと思った。

文章としてはすごく納得がいったが、からだの働きとしてはどうなのだろうか?

人間の関節には、筋肉がついているのは、ご存知のとおり、
例として、肘の関節を取り上げてみる(肘関節は蝶番になっているので、動きの例としては説明しやすい。ほかの関節は動きが複雑なので、今の自分では説明できる能力がないです、ごめんなさい。)と、

肘が曲がっている時、主として上腕二頭筋(いわゆる力こぶ)が働いている、
逆に肘を伸ばしている時は、上腕三頭筋が働く

感覚として、肘を曲げている時と、伸ばしているとき、どちらがより、力、を感じるだろうか?

おそらく、多くの数の人が肘を曲げたときに「力強さ」と云うものを感じる事になるかと思う。
がしかし、同じ重さの鞄なり荷物なりを持つとき、どちらが重く感じるだろうか?

おそらく、これも肘を曲げている時の方が、重く感じるのではないだろうか。
なにを当たり前の事を、と言われるかもしれないが、力を出していると自分が思っていても、実際、外に働く「仕事」の量が自分の実感と差が出ている、という事に気がつくと、少し面白い気がする。

どういう風に感じられるかは、その人の必要に応じるとは思うが、、

次に頑張るという事について、先ほどの例、肘関節を挙げてみる、どういう事になるだろう

自分の実感しかなくて、申し訳ないが、肘を曲げて、さらに「頑張る」と
肘の内側も外側も筋肉が緊張してくる。なるほど、「自分は頑張っているぜ」と思ってしまう。

しかし、この状態では、肘をそれ以上、曲げる事も伸ばす事も出来なくなってしまう。

極端な話、外にはたらく仕事が「0」になってしまう。( F=ma という式でa(加速度)が0になる
とF(仕事量)も0になる)
自分が、ものすごいエネルギーを消費しているにもかかわらず、である。

「頑張ればなんでも出来る!!」と言われて育ってきたが、結局、
「頑張れば頑張るほど、何も出来ない」かもしれない、と最近思う。

「頑張っている自分」に感覚が支配されて、『「なにか」が、出来る可能性』
を見失ってきたのかもしれない。

頑張らない、という事と怠けている、という事は違う。

自分自身のからだ、をもう少しだけ、大事に見つめていけるような環境になる事を望んでいる。
ではまた。