最近、散歩をしているときに、自分の体軸を感じることが多くなってきた、個人的には良い事に思われる。

少し前、ヨガのプラクティスをしているときに、昔言われた、「顎を引く」 事を意識して、サマスティティ(直立のポーズ?)をやってみたが、首の前が詰まる感じがして、どうも気持ちが悪い。

確かに顎を引くと、いわゆる「真面目っぽい」立ち方になるのだが、からだがそれを嫌がるみたいだ。

そこで、以前何かの本で読んだ(齋藤孝さんの本だったと思いますが、、)
「頷く」 感じで立ってみた。

すると、首の前も詰まりがなく、からだの中に軸が通っている感じがする、
「おぉ、これは良いぞ、」と思った。(自己満足みたいな文章で、いつもながら済みません、、、)

なぜ、外側の見た目はあまり変わらないのに、体の実感がこれほど変わるのかを少し考えてみた。

「頷く(うなづく)」の言葉の意味は
「項(うなじ)」を「突く(突き上げる?)」から「頷く」ということらしい。

項を突き上げる感じで、首を調節すると、第一頚椎(環堆)と第二頚椎(軸堆)の間に、長軸方向を圧縮するような、力が生まれる、

ようするに、頭の上に物を置いた状態に近いのではないか、と思われる。

よく、こちら(インド)で見かける、頭の上に荷物を載せて、歩いている人(多くは女性)の姿勢がすごく美しい、と思うことが多かった意味が、少し分かった気がした(まだまだ、目指すところは遠いが、、)

日常生活の中でも、応用のし易い、こういうことを、もっと気づいていけたらいいな、と思っている。

ではまた。


最近、ヨガのアサナのプラクティスで、見た目は同じでも、ちょっとずつ違うことを自分の体の中で試している。

たとえば、パールシュバコーナアサナ(ヨガを知らない人にはわからなくてごめんなさいです。)で
踵の外側に乗ってみたり、内側にのってみたりとか、

たとえば、パールシュボッタナアサナ(これまたヨガ知らない人には、、以下同文)で
前脚側の肋骨を骨盤から遠ざけてみたりとか、、色々試しております、
見た目が変わるくらいには、まだプラクティスが足りないですが、、

アサナが一応、「見た目」ができたところで、在り合わせのまま、すすむのではなく、
体の中の変化を楽しむことが、最近の課題のような気がする。

そうして、今までとは、同じ事をしているようでも、体の使い方を少しづつ変えていったりしながら、プラクティスを続けていると、今までとは違うところに筋肉痛が起きてくる。

目に見えないような、細かいところを「こわしている」気がする。

筋肉痛というのは、壊れているときに起きているのではなくて、回復しているときに起きている。
という話を聞いたことがある。

ということは、
痛み→回復、というプロセスではなくて、
痛み=回復、という式が成り立つのだろうか。

だとすると、よく此方(インド)で言われる、
No pain,No gain.
という言葉は painの後にgainがやって来るのではなくて、
pain=gain
なので、当たり前のことなのか、ということに最近、気がついた(遅い気がするけど、、)

真理は何時もシンプルなのかもしれない、それでいることが一番難しいのだけれど、、

ではまた。
ものすごく久しぶりの書き込みです、パソコンに向き合うことから少し逃げていました。

今回、3回目のインドでのヨガ修行をして、早一ヶ月が経ちました、月日の経つのは本当に早いものです。

此方で決められていることは、ヨガのプラクティスだけですが、思った以上に日常が忙しいです。
ほかに特にすべきこと、として決められているものは無いのですが、、、

原因のひとつとして、ふだん日本では、電化製品に頼っていることが全て、手作業によって、されていることですかね、掃除、洗濯、ETc、、、

普段は意識しないことが、自分の手でする事によって、有り難味というか、気づきを得られないまま、見過ごしてきたんだな、ということがよく分ります。洗濯とか、結構時間がかかるんですけどね、、、

話が少し変わりますが、私が日本で仕事をしていたとき、患者さんにはよく
「一日3分でもいいから、運動しましょう。」 ということを、毎日のように言ってきました。  

で、患者さんの返答として多かったのが、
「忙しいから運動する時間が無い。」 というものでした。

この、患者さんが言葉にしている 「忙しい」 と自分が、今、感じている 「忙しい」 は、同じものでしょうか、自分には少し懐疑的です。

「忙」という感じは、「心」を「亡くす」、と書きますが、この「心」がどういうものかによって、
 
ほかに自分が本当にしたいこと「心」、があるんだけれども、色々、考えるのが面倒くさいから、
この 「心」を「亡くし」 て、とりあえず「忙しい」 と言っておこう、になるのか、

ざわざわして落ち着かない感じの「心」(雑念とかになるんでしょうか?) を、今、此処、にいる自分がしていることによって、「亡くす」こととは、別のものではないだろうか、とか、最近は考えています。

出来れば、前者の 「忙しい」 よりは、後者の 「忙しい」 の割合を高めていける様な、日常を送りたいと思います。

ではまた。