改正臓器移植法の施行 | 小林鷹之 オフィシャルブログ Powered by Ameba

改正臓器移植法の施行

みなさん、こんばんは。
こばやし鷹之です。


三連休の初日、関東地方は天気が良かったですね。
いかが過ごされましたか?
私は、古びた軽自動車を一人で運転しながら地元を回っていました。
畦道を走っていて田んぼに落ちそうになった時は、冷や汗。
ということで(?)、今日も汗だくでした。


汗だくになりながら、とある農家に到着。
おばあちゃんとご自宅でお話させていただきました。
おばあちゃんは立つのもやっとでしたが、現役の農業ウーマン。


「今日は梅雨明けですね。夏も本番なので大変ですね」


と言ったら、


「梅雨が明けて田んぼ見に行ったら、(腕を広げながら)こーんなに育っていたよ。
年もとったから、本当はもう米作りをやめようと思ったけど、今年はやっぱりやろうと思ってねえ。
わたしゃあ、この土地に愛着があってなあ。」


おばあちゃんの手は少しゴツゴツしてました。
そんな、おばあちゃんが、


「背もたけえし、わけえなあ。
あんたみたいな、わけえもんが自民党から出てくれるんだったら、わしゃ応援するよ」


おばあちゃんの気持ちを受け止めて、その期待に応えられる人間になりたいと思いました。




さて、今日は、改正臓器移植法の施行日です。

改正前と後の最大の違いは、
改正後は15歳以下であっても、家族の同意があれば、臓器移植を実施できるという点です。

小説兼映画の『闇の子供たち』 で描写されたように、子どもの臓器移植の道が一切開かれなければ、アンダーグラウンドの世界で、違法かつ人道に反した臓器売買・人身売買ビジネスが跋扈するだけです。
したがって、一定の条件のもとで、子どもの臓器移植の道が開かれたということは、選択肢が増えたという意味で評価すべきことだと思います。



しかしながら、自分が実際に子どもを持つと、非常に複雑に感じてしまうのは否定できません。
身勝手なもので、もし自分の子どもが臓器提供を受ける側であれば、今回の法律施行を何の迷いもなく肯定的に評価するでしょう。
でも、逆の立場、すなわち、自分の子どもが脳死状態になって、臓器提供を「できる」立場になった場合、果たして親である自分はその決断を下すことができるだろうか。
極めて疑問に思えてしまうんです。



今、目の前のバウンサー(ゆりかご)に乗って、ほにゃらほにゃらと娘が話しかけてきています。
この娘が、仮に何らかの事件で脳死状態に陥ったとします。
同じ年頃の子どもたちの中には、きれいな臓器の提供を受けられれば、更なる人生の時間を与えられる子達がたくさんいます。そして、そのことを頭では分かっている。
でも、自分の娘の体がまだあったかい状態で、


「体を切り刻んで臓器を提供しても良いですよ」


と自分は言えるのか、かなり疑問です。
一分、一秒でも、この子と一緒に時間を過ごしたい。
そう思うのが親の素直な気持ちなんじゃないかと思えてならないんです。

勿論、他の子どもの体の中で、自分の子どもも生きていると思えればいいのでしょうが、私はそう簡単には割り切れない気がしています。



子どもが生まれる前は、もう少し割り切れるような気がしてました。
立場が変わると考え方・感じ方も変わるんですね。

未熟だな、そう言われれば否定できません。

しかし同時に、色々な立場を理解しようとする姿勢が政治家には求められているとも思います。
そしてその結果、解が存在しないと感じる方程式であっても、解を捻り出すべく悩み続ける姿勢、これも求められているんだと思います。

この問題に限らず、今の世の中に山積する難しい問題から逃げることなく、しっかりと悩み続けていきたいと思いました。






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達磨の名産地、群馬出身の同志が送ってくれました。

「目標達成、祈当選完遂」

大きな勇気をもらいますね。

頑張ります!