物語としての『スーパーカブ』は

僕の場合、

アニメに始まり、コミックに発展し

原作小説となった。



アニメやコミックでは原作の途中までを

変化する前の女子高生で原作の筋を守って

製作されているように思う。

小説では3巻あたりから主人公は変化する。


主人公はカブのエンジンをバラしたら

たかだか2年の間に

バイク乗りがどうだの言う奴になる。

一応、バイク屋で修理手伝いをしている

くだりはあるし、作者がどう書くかは

作者の自由ではある。

嫌なら読むのを止めればいいだけのこと

ではあるが

ADHDのせいか結末が分からないのも

又、モヤモヤして嫌なんで読み続け

8巻を読破した。


あくまでも私個人の感想として書く。

ハッキリ言って

こんなに気分の悪くなる小説は初めてだ。

主人公が知り得た事でしか断言はしていない

との見方をした知人もいたが

知り得た事だとしても

言動が何かにつけて偉そうな

「おまえ何様よ」という感じだ。

あとがきを読むと要は主人公の名を借りて

作者が自分の経験とやりたかった事を

小説の中で展開しているように思える。

東本昌平の『キリン』の

パクりとみられる部分はあるし、

カブの表現にも可笑しな部分がある。

7巻で50から90になる時に、

タイヤが  "大径"  であると表現しているが、

僕の調べでは

前タイヤは50が2.25×17、90は2.50×17

リアタイヤが2.50×17で共通、

径に変化はない。

あえて言うなら「前が幅広」とすべき❗

作者はサイズを調べたのか⁉️

日本語を解ってるのか…。


バイク乗りなら自分でエンジンをバラして

スクラップ屋に通うくらいするものだ的な

書きぶりも伺える。

絶対にいないとは言わないが、

両親がいなくなり、カブにのめり込み

コンプレッサーやボール盤を常設する

ましてや旋盤を買おうなどと…。

こんな女子高校(大学)生いるとは思いがたい。

会話をしている場面では

男同士でしてるように感じるのは

所詮、主人公はオッサン(作者)の分身なのだ。

8巻にきて、

読んでいて何か苛つく理由がようやく解った。

それは小熊の言い回しが

用言止めが多いせいのようだ。


エンジンのバラしが出来ない者の

やっかみとは違う

僕はカブ系のエンジンをバラし

1台のバイクを組み上げた経験はある。

出張先で時間があって

時間調整に寄った中古屋に

転がっていた旧ダックスのエンジンを

会社の車に載せて帰ってきた。

丁度、懇意にしていたバイク屋に

CDのフレームがあったんで其れを貰って

取り敢えず暇潰しを兼ねて

寮の駐輪場や軒先を使い

バイク整備などを勉強することにした。






イメージはアエルマッキを

ハーレーXLCR風にしたら

こんな感じなったと言うもの

CDフレームにダックスエンジンだから

名付けてCDX



話が脱線してきたので

諸々やったことはここでは割愛するが

何れにしても出来ない者のやっかみではなく

実際にバラして組んでをやってきた者として言う

普通、バイクに乗ってるからと言って

必ずしもバラして組んでを誰しもやれるかと

言ったらそうじゃないと言いたいだけ。

バイク乗りがどうのと上から目線で

のたまうことに憤りを感じただけ。


普通という物言いは

大多数の言葉の暴力とも思うが、

バイク乗りだからといって

皆が皆、作者の尺度に見合うものではない。

文体が片岡義男さんに似ているが

読み終えたあとに彼のような爽やかさがない。


そして、タイトルをどう付けるかは

これも作者の勝手とは思うが、

主人公が乗っているのが

スーパーカブであるだけで

『スーパーカブ』とされたのにはカブ人気に

乗じての小説を手にされるのを

狙ったものなのか?

ハッキリ言って妥当とは思いがたい。

いや、『スーパーカブ』とはして欲しくない。


ついでに、そんな主人公が

「同じカブ愛好家として」などと思う件には

チグハグな感を覚えた。


追記

バイク便に高いCT125を使うことなど

あるものか‼️