本日は、以前にしたお話と重複する内容が多々あるかもしれません。


堪忍してね。

(※イメージ画像・Google Earthより)



30年前なんですけどね。


当時、大阪府の東の端っこに住んでたんですね。


で、直前の週末に大学入試センター試験ってのがございましてね。


14日(土)15日(日)が試験当日で、16日(月)は自己採点をして願書を出す先を決めましてね。


このあと各大学の試験へと雪崩れ込んでゆくんですが、最初の大きな山を越えてホッとした瞬間が17日の夜中ですわ。


このタイミングでね。


ぐっすり眠っているはずなのに、なぜかパチっと目が覚めまして、明らかに西の方からドーンと云う音がしたかと思うと、それまでの人生で経験したことのないレベルの揺れが始まりました。


普通地震が起きると縦揺れとか横揺れとか言いますやん。


一軒家の2階だったせいもあるのかもしれませんが、グルグルとシェイクされるような揺れが襲ってまいりました。


木造二階建ての家に住んでいたんですが、もしかするとバラバラに分解されてしまうんやないか?と感じるほどの大きな揺れが続きます。


あとから聞いたその時の震度は5(当時の基準による)だったそうで、阪神・淡路エリアが7と言われていますから、それはそれはとんでもなく揺れたんだろうと思います。


ようやく揺れが収まったところで一階に降りて両親の様子を確認します。


「さすがやな」と思ったのが、ウチの親父がオカンに覆い被さって守っていたこと。


エェとこあるやん。


一通り家の中を確認したんですが、幸いな事に壊れたところも落ちたものも無く、ライフラインも全て正常でした。


このあと既に独立して家庭を持っていた兄弟のところに電話してみたところ、片方の家は食器が全てバラけたものの、どちらも怪我人も無く無事とのことで一旦寝床に戻りました。


本当の被害状況、特に阪神間の様子が伝わって来たのはその数時間後のことでして、見たことのない光景がテレビの中に広がっていました。


4月になり、なんとか大学生になれたんですけどね。


その夏から大阪市内の某スーパーにてバイトを始めるわけです。


で、ある日高齢のご婦人に声をかけられるわけです。


「なんでわざわざ神戸からこんな遠いとこまで買い出しに来やなあかんねんやろなぁ兄ちゃん。」


ぶっちゃけ、そんなん言われましても…ってのが正直なトコロなんですが、今にして思えば誰でも良いから(それが世間知らずの19の若造でも良いから)愚痴を聞いて欲しかったんやろなぁと思います。


全く知らん人の方が言いやすいでしょうしね。


後年、職場で同僚になった方が被災地のど真ん中で避難所生活を経験なさった方でして、当時の生々しいお話を聞きました。


控えめに言って地獄ですわな。


何のご縁か阪神間の端っこに居を構える事になり、大阪では経験しなかった、娘の学校の本格的な避難訓練に度肝を抜かれ、不自然に綺麗な街並みに出くわすたびに、


「ここは被災地なんだ」


と実感させられます。


知識として過去の災害が頭の中に入っていたりはします。


洞爺丸台風(1954)や伊勢湾台風(1959)、そしてもっと古くならば関東大震災(1923)といった災害は教科書にも出て来たと思います。


関東大震災はともかくとして、前述の二つの台風から30年と言えばちょうど80年代中頃から終盤です。


私の小学生〜中学生の時代がこの頃でして、ウチの下の娘と近い年頃です。


つまり、彼女から見た阪神・淡路大震災ってのは教科書の中の出来事なわけです。


そう考えると、直接被災したわけでもない周辺の自治体に住んでいた我々でも、あの日何があったのかを記録として残す事には意義があるのかな?と思い今日は自分の体験を書いてみる事にしました。


何せ発災直後は一瞬だけ“京都が大変らしい”なんて報道があったくらいですからね。