昨日の思い出話の続きです。
初めて乗車した時の衝撃もなかなかのものでした。

当時、緑の安全色にブルーの座席、床はグレー1色と云う101/103系しか走っていなかった片町線も、全検明けの車両から化粧板がアイボリーになったりブラウンのシートに張り替えられたりと、民営化してから車内環境を改善しようと云う工夫がちょくちょくなされる様になっておりました。

しかしながら、新車の香りが漂う207系の車内の清潔感の足元にも及びません。

ホワイトを基調とした明るい床材に座席もブルーではあるものの、心なしか色調が明るくなった様な気がしました。

個人的にビビったのは妻面でして、アシンメトリーの貫通扉なんて、発想すらございませんでした。

当時は89年の木津電化以降、松井山手における分割・併合対応で、美しかった103系貫通7連が4連+3連のあられもない姿にされておりまして、貫通7連の207系がもう一本ぐらい増備されるものと思っておりました。

しかしながら、103系を置き換えて行ったのは4連+3連の汎用性の高い編成ばかりで、結局貫通7連は量産先行車のみと云う憂き目に遭ってしまいました。

片福連絡線を軸に関西各路線を繋ぐ、いわゆる“アーバンネットワーク”運用の中で、4連での運用が迫られる線区も含まれていた当時としては使い勝手の面でやむを得ない判断だったのでしょう。

その後、大人になってゆくに連れて私も片町線沿線を離れ、東海道線のいわゆる“京都線”と呼ばれるエリアの沿線民となったわけですが、その頃も破竹の勢いで増殖し続ける207系のお世話になり続けたわけです。

まだまだ“ついこないだ”と思っておった207系のデビューも、来年には30年前の出来事となります。

117系で関西に少し本気になった(?)TOMIXのことですから来年は量産先行車と体質改善車の製品化を企画していてもおかしくないなぁ…なんて妄想が捗る再生産でございます。


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