タイトルに引かれ、借りた本だが、確かに最初の出だしは、読書好きの私にもうなずく話が出て、一緒だと思ったが。
著者同様、読書に集中できない。

幼い頃から本に親しみ、思春期にはいろいろな本を手あたりしだいに読み、学生時代にはバックパックひとつでヨーロッパ中の書店をめぐり、新婚旅行では崇拝する作家たちが描いた場所を訪れた。現在では大学院で創作を教えるかたわら、さまざまなメディアに書評を書いている。昔も今も、書店へ入ると、文豪たちとの対面に衝撃を受け、腹がごろごろいい出す。
訳者あとがきで、著者のプロフィールはそう綴られている。
そんな著者が、プロローグで、息子に文学は死んだと、本はもう読まないと言われても、反論するどころか、間違っているとは思えなかったと述べている。
自身を省みて考えると、著者の悩みは、読書に集中できないということ。文筆家であり、書評家でもある著者が本を読めないとあっては、危機的だと。
そして息子の宿題を手伝うためにと、「グレート・ギャツビー」を読み始めるが、集中できない。本を読む静寂な時間を奪われている。インターネットが差し出してくる様々な誘惑のせいだ。
それをきっかけにして、読書について、著者が住むアメリカと言う国、自分の青年時代、息子の価値観、脳科学など様々な見地から、読書について考え始める。

結論目いたことを先取りすれば、著者が読書に求めたものは、紙の本でも電子書籍でもない、物語なんだと。それが著者が読書人生で求め続けてきたものだった。

インターネットにより全世界と結び付き、絶えず関係を繋いでいることを強いられる現代において、読書はそれに抵抗する行為だといえる。物事に真剣に向き合うことを忘れてしまった我々が、何かに没頭する、時間をかけて、自分のペースで、結び付いていく、深いレベルでの結び付きを得させる。時間に流されず、それに向き合う。世界から一歩引いて、世界を自分を再発見する。より広い対話により、自分自身を超越し、より大きな自分を得る。読書はひとつの瞑想的な行為となる。現代ではそれが難しくなってはいるが、それでもなお、私は本を読む、読み続けていく。

巻頭と巻末を少し拾い読みしただけ。1冊読んだとはとても言えないが、でも改めて読もうと言う気にもなれない。