徳川幕府の伏見奉行を勤めた小堀遠州は、茶人としても知られていた。
生まれは近江の国、小堀一族は浅井家の支配下にあったが、浅井家滅亡の後は、寺に入っていた父親新介が還俗して、長浜城主となった羽柴秀吉に仕えた。のちに秀吉の弟秀長に仕え、秀長が大和郡山城主となった折りに、遠州は小姓として仕えた。秀長および跡継ぎとなった秀保の死後は秀吉に仕える。関ヶ原の戦いで新介は徳川方につき、戦後備中松山で一万石の大名となる。新介の死後は遠州が跡を継ぎ、後陽成院御所の作事奉行を命ぜられる。以降、駿府城、禁裏、二条城等数多くの作事奉行を勤め、建築と造園に才能を発揮した。
幼い頃から茶に親しみ、古田織部に師事して、茶の道も極めた。
織部の死後は大名茶の総帥として、多くの大名茶人を指導した。奔放でありながら理屈っぽい織部に比べて、綺麗寂びと言われた美しくて立派だと称された遠州。
ラスト近くで漏らす遠州の言葉によれば、彼は川を進む一艘の篷舟であったと。さほど目立ちもせず、きらびやかでもないが、謹み深いさまは性に合っていたと。されど、弧舟ではなかった。ひとはひとりでは生きられない、と。
この作品は遠州が戦国から徳川の治世が安定するまでを生き続けてきて、出会った人々の思い出を描くエピソードを綴り、彼の半生を描いたもの。
<白炭>で描かれるのは利休、天下人秀吉に真っ向から立ち向かい、一歩も退かなかった茶人の生きざま。利休が好んだ黒い茶碗、そこに遠州は無明長夜の闇を見た。
<肩衝>では、沢庵により、一度だけ会ったことがある石田三成の思い出が語られる。世間の悪評とは違う三成の一面を垣間見た遠州。
<投頭巾>家康から差し出された茶入れの名品2作から、新将軍秀忠が選んだのは投頭巾だった。茶頭を勤めた織部にその選択の意味を聞かれた遠州は、秀忠の奥ゆかしさをあげる。それに対して織部は秀忠は一介の武士ではなく将軍だという。言い伝えによれば、頭頭巾に入れる茶は無上のものではなく、並みの茶だという。ならば、秀忠はひとに抜き出たものは敬遠され、凡庸なものが持ち入れられる。織部のような者は居場所を失うだろうと。事実、その後織部は謀反の疑いをかけられ、切腹して果てた。
<此世>は、利休の香炉。もともとは朝鮮辺りの雑器だと思われるが、利休が香炉だ言えばそうなり、たいそうな名がつく。将軍秀忠の娘の入内に際しての作事奉行を命ぜられた遠州に、後水尾天皇は自分はその香炉と同じだと言われた。天皇により庭師賢庭を紹介された遠州は、徳川嫌いのその庭師に仕事を任せることができた。
<雨雲>遠州より年下の金森宗和は、茶人だが、王朝趣味にあふれ、姫宗和と称された。利休の孫で、千家を復興した婿養子少庵の息子宗旦は、宗和を嫌っていた。利休の長男道安は金森家に身を寄せていたことから、その流れを組むと思われた宗和は、利休が確立した侘び茶を堅持しようとした宗旦に嫌われた。その宗和が羨ましがった宗旦の持つ楽茶碗雨雲。光悦作のそれにまつわる製作秘話が語られる。光悦の母親の秘話が。
<夢>は沢庵が残した辞世の偈。それを見ながら遠州は対処的な二人の僧、沢庵と崇伝を思い出す。南禅寺を復興した崇伝は足利将軍の名門家臣の出。家康に仕えて参謀を勤めた。その死後は競争相手の天海に負け、なりをひそめた。
<泪>で回想されるのは、細川三斉。豊前の国主までなり、息子が熊本城主になると、八代城を隠居城とした。
武勇だけでなく、激動の時代を生き抜くすべもあった。素養を備え教養もある大名だった。利休の高弟の一人でもあった。そんな三斉に遠州は嫌われていると評されていた。それにまつわるエピソードが語られる。泪とは、利休が作った茶杓。その死後は織部が持っていたが、織部の死後は行方知れずになっていた。その行方を突き止め、強引に手に入れて、将軍に差し出した遠州を、自身も手に入れたいと思っていた三斉は嫌った。しかし、その真相をのちに知った三斉は、遠州に降りかかった難儀に手をさしのべてくれた。
<埋火>後水尾上皇は、東福門院入内の折りに、藤堂高虎が天皇に呟いた、この言葉の意味を知りたいといってきた。高虎はすでになく、それを知るのは娘婿である遠州。和子入内に反対し、譲位を主張する天皇を説得するために高虎は、天皇の御子を生んでいた女官に接触した。天皇への手紙を依頼する。戦場しか知らぬと思われた高虎の一面が描かれる。
<桜ちるの文>正月、病床に伏す遠州は、今年も桜を見られるかどうかとあやぶむ。気を引き立てようと、桜にちなむ掛けものを取り出す妻。藤原定家筆の紀貫之の和歌、桜ちるの文。三代将軍家光に品川御殿で催した茶会。そこに掛けられたのがそれだった。それは家光に別れを告げようとしていた伊達政宗を忍んだものだった。利休とも茶席を共にした伊達政宗は、泰平の世の茶人とは遠州のようなものだったかと言った。カインの末裔と言う点で心を共有する家光と政宗。彼は遠州に足りないのは罪業の深さだと諭した。そんなお気楽な自分を気づかせたのは天草の乱だった。
<忘筌>死期が迫った遠州は悪夢を見て、奈良にすむ義弟左京の訪れを予感する。彼もまた悪夢を見た。島原の一揆以降に襲った疫病、噴火による凶作。異常気象により全国に飢饉が蔓延した。それに対処した幕府役人としての遠州。西国民政を担当する八人の一人だった遠州。農政にも詳しいと思われた遠州は飢饉対策に奔走した。そんな遠州を駆り立てるもとになったのは、八条の宮が建てた桂の別荘。大阪の陣で亡くなった山水河原者の妻子を使い建設し、彼らの浄土を作ろうとした、それに手を貸した遠州。
争乱を治めるだけでなく、その後の庶民の生活を救い、平和な暮らしを取り戻すことに留意するのも、為政者の務めではないかと、遠州は茶席で老中松平に進言した。その結果、幕府の対応にしたがって、遠州は四年江戸に腰を据えて飢饉対策に働いた。すべてが終わり、いまや死期を迎える遠州に悔いはない。多くの人に出会って学び、自らの茶をまっとうできた。茶は振る舞う相手がいてこその茶なのだと。