ようやく、最後まで読めた。本文が437頁と長い上に、扱う時代が、ほぼ江戸時代のすべてを含む時代。
ポルトガルの宣教師が、天下をとった秀吉に献上したぎやまんの手鏡。それが次々と人手にわたり、所持したものの様子が描かれていく。それにより、300年近い日本の歴史の一面が描かれていく。
最初に所持した豊臣秀吉は、正妻であるオネに手渡す。彼女の手で、妾であるお茶々へ渡す気だった。オネは茶々に対する呪いを封じ込めて、それを送る。大阪城で自刃した茶々はそれを妹である常高院に形見として譲る。常高院はさらに、徳川家康の手を経て、末の妹、家康の嫡男秀忠に嫁したお江に手渡す。
御台所のお江から、その鏡を拝借したのが家光の乳母お福。お江の臨終時に戻された鏡はいち早く江戸に戻った家光の弟忠長がひきとり、彼が流刑になって、夫人の手にわたる。彼女は織田信長の次男信雄の孫にあたる。忠長自害のあと、落飾した夫人により、蔵の奥にしまいこまれた縁起が悪いと思われた鏡は、四代将軍家綱夫人の手を経て、再び蔵へ。そして、五代将軍綱吉により、気に入りの側用人牧野成貞の手にわたる。不吉なものだから壊したいが祟りが怖いための下げ渡しだった。同様に牧野は出入りの商人越後屋の三井に渡す。江戸店の主は初代の次男、牧野は初代に見せて値付けをしろといった。そして京にまで運ばれた鏡は、剃髪して宗寿と名乗る初代三井八郎兵衛に渡され、さらに呉服商雁金屋の次男の手にわたる。市之丞と名乗った次男こそ後の光琳。さらに、三井へ戻された鏡は、蔵にしまいこまれ、見つけた小憎により捨てられる。
それを拾い上げたのが、赤穂浪士の討ち入り直後の、抜け出した浪士である毛利小平太。さらに、木曽街道追分の地蔵堂に捨てられた鏡を拾ったのが、元松前藩士の湊。老中田沼家を訪ねた湊は、公用人の三浦に源内のもとに行かされる。その源内の手を経て鏡は田沼老中のもとへ。愛妾の由布に渡された。
田沼失脚後、由布の手から親田沼派だった水野忠友の手にうつり、その留守居役により、三河よしだ藩主松平信明のもとに譲られる。さらに勘定奉行の久世広民の手に写った鏡。
奉行から蝦夷調査を命じられた青島俊蔵の手にわたった鏡は、蝦夷の地を踏む。田沼時代に巡検使を勤めたことがある青島は、松平定信の命での調査に難くせをつけられ、罪を得て島流しになる。旅で知り合った女のもとに残された鏡は、偶然再会した青島のかつての部下である最上徳内の手にわたり、彼が泊まったオランダ宿長崎屋で、シーボルトの手にわたる。長崎屋に残され、シーボルト事件も終わった頃に、長崎から来たオランダ通詞の手にわたる鏡。今では骨董品扱いの鏡。日米修交条約の際にその通詞の相手をしたヒュースケンというアメリカの通訳のもとに移った鏡は、彼を襲った攘夷浪士の手により、清川八郎のもとへ。
幕末の京における尊皇攘夷、佐幕反幕の騒動に巻き込まれる鏡。
清川から、芹沢鴨、近藤勇と鏡の所持は変わり、新撰組が屯所を壬生から西本願寺に変えたことがきっかけで、新たな持ち主となったのは、将軍侍医だった松本良順。江戸に戻り、江戸城開城を迎えた良順は、一ツ橋家の家臣だった土肥庄次郎、吉原のたいこもちである荻江露八に譲る。彰義隊に参加した彼が流れ弾を受けた際に、彼の身代わりとなって、ばらばらに砕けた鏡。
安土桃山時代から明治初年に至る長い年月を生きたぎやまんの鏡。それが見聞きした時代の声を活写した物語。