戦国時代から江戸時代初期を生きた絵師海北友松の生涯を描いた作品。
序で、京の名もない絵師が、江戸にいる春日の局に呼ばれて、江戸に赴くことになる。父親は名のある絵師だったが、弟子を持たず、一門を率いるわけでもなかったために、その死後跡を継いだ絵師、小谷忠左衛門は、三十五才にて、自分を絵屋と称していた。そんな彼に運命の転機が来たのは、二代将軍が亡くなったとき。江戸におもむき、三代将軍の乳母で大奥を取り仕切る春日の局に会った彼は、亡き父親の意外な生涯を聞かされる。それが、本作の主となる。
春日の局の父親は
、明智光秀の重臣斎藤利三。その利三は忠左衛門も父、海北友松と友人で、秀吉に処刑されたときに、その遺骸をひそかに葬ってくれた。その恩返しがしたいと、忠左衛門を幕府のご用絵師に取り立ててくれた。
海北晩年の結婚による息子である忠左衛門は、強いてみずからを語らなかった海北のことを何も知らなかった。

海北友松は、近江浅井氏に仕える武勇の誉れ高い重臣海北家の三男で、もしもの時に家が絶えぬように、京の寺に入れられた。武人らしき大柄でたくましいからだをもつ友松は、僧になってもぶじゅつのたんれんも怠らず、絵の道も学んだ。その才を認められ、足利将軍家の絵師、狩野正信の弟子となる。
いつか武士に戻り、名を挙げたいと願う友松の野心があふれでる墨龍図をとがめられたことで、狩野家とは離れる。
同じ禅寺で知り合ったのが、のちの外交僧恵けいや、尼子家の再興に担ぎ出された勝久。武士になるか絵師として生きるか、決めかねる友松は、信長から家康へと天下人が変転する激動の時代を、どことも一線を画して生きた。いまだ代表作を描けない絵師として。
正信の孫で天才の狩野永徳とも知己を得るが、最初は、その天分に感嘆しながらも、自分の生きる路とは違うと感じていた。
斎藤利三の父違いの妹が土佐の長曽我部元親に輿入れする際に現れた乱暴者に立ち向かったのを縁に、利三と知り合い、その主である光秀とも知己を得る。今は信長に荷担する美嚢衆の一人だが、心の奥底には、事あらば裏切る事もあると思われた。美濃の国を斎藤道三から委譲されたという手紙が、あると聞いた友松は、毛利家に仕える恵けいから頼まれたこともあり、永徳の縁で道三の息子の一人が住職を勤める寺に絵師として訪れ、それを手に入れる。それは委譲に関しては偽物だった。京に進攻した信長が頼んで、美濃を委譲されたように思わせるためのデマだった。
京の商人層に取り入るために法華宗を庇護した信長だったが、キリシタンに乗り換えて、法華宗から晴れようとしている信長に不満を持つ住持が、偽の委譲状を友松に託す。友松はそれを、道三の娘で、信長の正室である帰蝶に手渡す。こてが、光秀の謀反、本能寺の変のきっかけになったらしい。

信長に続き、新たな天下人秀吉にも仕えて、旺盛に絵を描き続けた天才絵師永徳は五十前に死去。利三の遺骸を葬った後、消息を絶っていた友松が世に現れたのは、永徳の死後数年。
石田三成の供として、九州下向に従い、旅の見聞を広げる。
還暦を過ぎてから、近江出の武士の娘と所帯をもち、息子を得る。その後、ようやく、己の絵を見いだしたかのように、精力的に絵を描き続ける。恵けいの縁でdr、京の建仁寺百近い絵を描いている。雲竜図、花鳥図、竹林七賢図、山水図、などを、障壁、ふすまに描いた。七十近くになり、大器晩成した。
関ケ原の後は、友松は京の朝廷に仲間を求めて、悠々自適に過ごした。
豊臣家の滅んだ年に、戦国時代の終焉を見届けたかのように、友松はなくなる。八十三才。

亡き父の思いを知った忠左衛門は、自分も同じようにして絵を描き続けたいと。
海北家を再興して、友雪の号を用いた。江戸狩野の探幽に師事して、幕府や朝廷のご用を勤め、法橋に叙せられた。友松の画業を引き継ぎ、後世に残した。